銀座一丁目新聞

追悼録(642)

戦友のひとこと

また、今年も終戦記念日がやって来た。昭和20(1945)年8月15日、それは暑い富士の裾野の演習場で拝聴した、天皇陛下のラジオ放送をもって大東亜戦争は終わった。そして、老生あこがれの軍人時代も終わった。多感な19才の人生が大転換してしまったのだからあのころのことを想いだすのも無理はない。

昭和20年、老生は小田急線相武台駅近くにあった陸軍士官学校に士官候補生として学んでいた。空襲が激しくなり課業に支障を来すこと、本土決戦で大本営(天皇を始めとする軍の総司令部)が長野に移動した場合の護衛任務も兼ね長野県佐久地方の小学校に広く分宿して教育を受けていた。

某日、野外演習を終わり夕刻、整列して夕闇迫るころの帰校の行軍中のことであった。隣に歩いていた竹内候補生がひそかにささやいた。「おい、日本は勝てるのか?負けるんじゃないのか?」必勝の信念を叩き込まれた当時の感覚では、意外に重大な言葉であった。だれもが焦土と化した本土、じりじり玉砕しつつ後退する軍、ひっ迫する燃料や食料でなんとなく感じてはいるものの、口には出せぬ禁句であった。竹内は名を「桃太郎」という奇抜な名前であった。三河三谷の出身で名古屋陸軍幼年学校(中学一、二年から受験して入校)より来た男、身体強健、成績は文武両道で優秀、性格も堅実、とうてい老生の及ぶところではなかった。しかし、図らずも彼は老生の隣同士で起居をともにし、互いに助け合う義兄弟のような「寝台戦友」であった。

そのころ「三号甲」という40cm立法ぐらいの箱型無線機を使った演習で、宿舎にそれが保管してあった。別のコイルを挿入すると民間の短波放送が入って来るのを知った。また米軍の宣伝放送も聴くことができるのでひそかに夜中に聴いたことがあった。当時沖縄戦の最中で、なんと「投降者が多く戦うのに支障を来している、日本の超ド級戦艦ヤマトを爆沈した」とか「ポツダム宣言」などを放送している。われわれ国民はなにも知らされておらず、宣伝放送と高を括っていたが、へんに気にはなっていたのは事実だ。それが8月15日終戦、「桃太郎」の言が的中した。それからの愁嘆場、候補生や学校の行動についてはさておき、8月末、歴史と伝統の士官学校は解散し、涙をのんで帰郷したのであった。

終戦翌年のころ。老生の家は杉並区にあった。当時は燃料も乏しく銭湯通いが普通であった。某日、浴槽に入っているとケツを突っつくやつがいる。当時はやくざがはばを利かす時代だったので相手にしないでいるとまたやる。この野郎ッと振り返ったら奇遇も奇遇、湯気の中に「桃太郎」が首だけ出しているではないか。「貴様、三河三谷へ帰ったのではないのか?」交友が再会した一瞬だった。まさに、はだかの付き合いだ。戦後、別れてから広い東京でよく会えたものだ。その上、拙宅よりごく数分のアパートにいるとのこと。三河から出て来て刻苦勉励、司法修習生として勉学中であった。その後、結婚式にも呼ばれ、家族ぐるみの交流があり、従弟の不動産屋に頼んで家も世話してやった。

時移り、かれは、おすに押されぬ労働法の大家の弁護士として昭和60年(1945)東京都第一弁護士会の会長の要職に就いたことを知った。そのころ、老生は2,000人からいる母校学園の事務長をしていたが、教職員組合との労働問題では、かげになり日向になって心配してくれ世話になった。理事長にも紹介し、学園お抱えの顧問弁護士には「桃太郎」の話をしたらビックリ、態度が変わる。偶然かれは「桃太郎」の弟子だったのだ。しかし、惜しくも「桃太郎」は平成23年3月13日大動脈瘤破裂で亡くなった。85才であった。その数年前には夫人を亡くされ、苦労だったのだろう。毎年、8月15日が来ると戦友「桃太郎」の言葉を鮮明に想い出す。

間もなく92才になる老生、まわりを見渡して縁者や親友はほとんど幽冥境を異にして淋しくなった。年賀状は少なくなり、手帳や頭髪も薄くなった。お盆で「桃太郎」がおいで、おいでと言ってくれても、これだけは付き合えない。あの世で団体交渉でもあったらまた、タダで頼むとしよう。安らかに成仏していてくれ。

(市ヶ谷 一郎)