銀座一丁目新聞

花ある風景(639)

並木 徹

同期生、上原重太郎区隊長の墓へ参る

同期生の下川敬一郎君の航空士官学校の第一生徒隊時代の区隊長は上原重太郎大尉(陸士55期)であった。敗戦時、録音盤奪取、近衛師団長斬殺事件に関与、その直後、航空士官学校の航空神社前で自決された(昭和20年8月19日・享年25歳)。下川君には上原区隊長には特別の思いがある。航空分科決定の際、軽度の漏斗胸のために「乙合格操縦適」とされた。区隊長からは「技術なり」(通信)と宣告されたがあくまでも操縦を希望、再三にわたり区隊長に懇願した。その結果、操縦となった。その喜びを日記につづる(昭和19年12月24日日曜日)。

「予の一生を決したる日なり。13時より分科発表あり。予は多日の願望成り。 操縦となる。歓喜雀躍手の舞ひ足の躍り止まるところを知らず。航空としては通信・技術も欠くべからざる分科なりと雖も航空として真面目は操縦にあり。軍人たらんと志すや予科士官学校に入校し、航空たらんと志し航空士官学校に入校す。而して操縦たらんと志し今又願望達成。次は戦闘操縦に邁進せん。予のあこがれの目標は特攻隊に在り」 昭和20年4月満州にわたり、杏樹飛行場で操縦の訓練を受ける。8月9日ソ連参戦で撤退、途次2名の同期生がソ連機の銃撃で戦死する。苦労を重ね鉄道で南下。8月23日博多に着く。修武台には8月29日帰校,31日復員した。

上原区隊長については「純粋そのもの、ただ只管皇国護持の信念を貫かれたのだと思う。結果として取られた行動が否定されることとなったが純粋な気持ちそして我が身を顧みることなく信念に向かって行動されたことには胸が打たれる」と記す(「平成留魂録」陸軍予科士官学校23中隊1区隊史)。 戦後下川君は上原区隊長の墓参を果たしたのは平成23年5月17日であった。 区隊長の御墓は鹿児島県姶良市の大本山永平寺紹隆寺にある(同市平松6190-4)。小倉家・上原家の先祖代々之墓に祀られていた。当日は日豊線重富駅から夫人正子さん宅へ伺い。正子さんの案内でお墓参りをしたという。下川夫人も一緒であった。彼は「区隊史」に書いた。「私は何が何でも操縦にといった行動をとった。上原区隊長は諄々と諭されたのみで決して怒ることはなかった。平常は口を真一文字に結ばれ大きな目玉が光っていたが笑われる時は相好を崩した童顔で、生徒思いの心優しい区隊長であった」。

上原区隊長と修武台で別れて66年、世の中は激変した。地下に眠る区隊長に下川君が感謝の念を捧げたのは言うまでもない。その後、彼からから頂いた手紙には長男は東北大学の医学部教授で二男は福岡市で病院長を務めているとあった。とりわけ長男は第80回日本循環器学会術集会(平成28年3月18日から20日・仙台)の会長を務め、初日の18日には東日本大震災5周年で、東北地方をご訪問になっておられた天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ会長として学術集会の意義をご説明したと喜びを書いていた。親子二代の栄譽である。下川君もまた予科在校中の昭和18年12月9日、58期生とともに昭和天皇の台臨を仰ぎ「振武台」の名称を賜った。毎年この日、陸士関係者が集まり『振武台記念』の行事を埼玉県朝霞の自衛隊駐屯地で行っている。

今年の4月、下川君が創元会に出品した絵は日向神峡の巨岩を描がいたものであった。最高資格の会員と認められてからの第2作目である。100号の大作を描くエネルギーには感心させられる。来年も期待する。