銀座一丁目新聞

安全地帯(541)

信濃 太郎

「権現山遥拝所跡物語」

「桜散るつわものたちの権現山」悠々

長野県佐久市八幡の権現山にある『皇居遥拝趾』(荒木貞夫大将揮毫)の碑文は訴える。「大東亜戦争の頽勢日ニ日ニ苛烈ナル昭和廿年6月末陸軍士官学校五十九生尾張隊一八九名ハ中山第三中隊長以下十三名幹部引率ノ本ニ我ガ御牧学校ニ移駐セリ尓後毎朝此ノ丘上ニ東天遥カニ皇居ヲ拝シ以テ決戦ノ英気ヲ養イ内ニ外ニ日夜鍛錬ニ力メタリ八月十五日万世太平ノ聖詔ヲ奉ジテ遂ニ皇軍悉クガ矛ヲ止ムルニ至ヤ当隊亦斯ノ山上ニ慟哭解体シテ遂ニ四散ニ及ビタリ爾来茲ニ二十年刻シテ其ノ芳ヲ後昆ニ流フ」。昭和41稔 深秋吉辰建立  依田英房。

権現山は長野新幹線「佐久平駅」から車で10分ぐらいのところ。温泉「穂の香乃湯」のすぐそばにある。
碑文を説明する。昭和20年6月6日、陸士59期生の第3中隊(「尾張隊」と呼称、本科15中隊第1区隊・第2区隊、16中隊第1区隊,第2区隊の歩兵科の士官候補生189名)は中山生藤第3中隊長(陸士47期)の元に南御牧国民学校に長期演習という名目で疎開した。毎朝、相武台では雄健神社で行っている皇居遥拝と軍人勅諭の朗読を移駐先では国民学校の近くの権現山で毎朝行っていた。佐久で自活生活をし現地戦術を行い訓練に励んだ。敗戦になってこの地から復員した。このほか第1中隊(「武蔵隊」と呼称、橋本俊夫少佐=41期・本科11中隊1・2区隊、12中隊1・2区隊)は春日国民学校、第2中隊(「陸前隊」と呼称、姫田虎之助少佐=42期。後に村井頼正少佐=49期と交代・本科13中隊1・2区隊、本科14中隊1、2区隊)は協和国民学校にそれぞれ移駐した。学校本部は望月の女学校に置かれた。

実は59期生会がこの事実を知ったのは碑建立から4年後の秋である。有馬豊君(歩兵・16中隊1区隊・平成22年2月死去)が昭和45年12月号の「偕行」に書いている。初めに依田さんの美挙を知ったのは56期の竹内光平さんである。竹内さんの手紙によれば戦後、大地主の依田家も零落、依田さんは隠居の身になったが終戦時の59期生の事を後世に長く伝えようと発起。家人周囲に内密でお金を工面し昭和41年秋同家所有の権現山の土地に『皇居遥拝趾」の碑を建立。費用は18万円であったという。依田さんは43年9月、他界。享年88歳であった。また終戦時1部の候補生が自決を決意、ピストルを試射した。依田さんがこれを聞いて身を挺してなだめ皇国百年の計のため生き延びるよう説得したことも記されている。有馬君はこの「偕行」に「恐らくは当時、村にとっては余計な闖入者であったかもしれない。我々士官候補生たちに対し、学校を開放し、食糧を提供し集団生活を支援するための、あらゆる困難があったことは想像以上であったろう」と述べている。1年後の5月8日依田さんの奥さんの奈賀子さんが上京され、区隊長・同期生たちと懇談してさらに詳しい事情が分かった。当日集まったのは15中隊1区隊・佐分利重哉区隊長(53期)。16中隊1区隊押田敏一区隊長(53期)をはじめ15中隊1区隊秋山智英君、木下春海君、有馬豊君、2区隊宮本弌朗君、16中隊1区隊荒川潤溢君、杉山茂雄君、3区隊石井勲君(船舶)、航空24中隊4区隊鵜飼益男君ら10人であった。

奈賀子さんの話によれば、依田さんは日露戦争の際、近衛騎兵として軍籍にあった人で、皇室に対する畏敬の念篤く、又軍人に対しても格別の理解と尊重の気持ちが強かった。終戦直前59期生が村に駐留されたときも心から歓迎したという。16中隊2区隊の荻原積君は自伝「風雪」の中に書き遺している。「深夜にかかわらず村長さん以下、村の幹部が出迎えてくだされ、村長さんが次のような歓迎の辞を述べられたのが今でも記憶に残っている。『今晩ここに南御牧村郷土防衛隊の隊長たる村長は陸軍士官学校生徒諸君を迎ふ。村民一同心から歓迎し、諸君の健闘を期待する』との事で感謝のほかなかった」。

深夜というのは各中隊が国民学校に着いたのが夜の12時を過ぎていたためである。実は3ヶ中隊に分れた歩兵科の士官候補生たちは6月6日朝、本科のある神奈川県座間を出発、信越線の田中駅に着いたのは午後7時20分ごろ。ここで大休止、国防婦人会のお茶の接待を受けて食事。午後10時出発、15キロの山間の道を歩いて望月に到着したのが24時であった。此処でもお茶の接待を受ける。それから春日村、協和村、南御牧村各国民学校へそれぞれ向かった。第1中隊は春日国民学校では竹花栄太郎村長、第2中隊は協和国民学校で武田貫一村長、第3中隊が依田村長の出迎えをそれぞれ受けた次第。企図秘匿の意味があったのかもしれない。

奈賀子さんの話は続く。「終戦となり皆さんとお別れしても主人はみなさんの事を忘れることが出来ず、いつも話題と言えば士官学校の生徒さんの事ばかりでした。そのうち皆さんのために何は記念になることをしてあげたいということで,遥拝趾の碑を作りたいと私に相談がありました。その頃戦後の農地解放その他で零落地主の例にもれず昔ほどの栄華も誇れぬ身の上に代わっておりました。当時は忠魂碑さえも壊してしまう世の中に変わってしまった以上、世間や地元の人たちにも決して歓迎されることではないからと反対した」という。ところが依田さんはあきらめず奥さんのために部屋を作るという名目で出させたお金を上手くため込んで碑の建立資金にしたという。依田さん自身も「今度ばかりは生まれて初めてお金の苦労を知ったし女房をだましてしもうた」と述懐したそうだ。手間賃などを含めれば費用は30万円ほどかかったようである。

昭和41年秋と言えば「東京オリンッピク」が終わって2年。世の中が高度成長時代に向かって走り出した時である。この時にあえて時代に背を向け「その芳を後昆に流す」(その芳を後世に伝える)と言い切った依田さんの志は尊い。59期生は忘れてはなるまい。

上京された依田奈賀子夫人は同期生たちに碑の周辺の土地の管理についても相談された。「隣接の農地の耕作で碑の周辺の土地が侵墾されたり植栽した桜の木が心無い人によって持ち去られたりしている。何か良い対策はないものか」。これに対して全員の意見は「保存はむしろ59期生で浄財を集め、将来保存会を発足させようではないか」ということであった。そこで秋山君が「農民には整然と樹木を植栽すればそれを抜いてまで侵墾はしない習性がある。来年春に桜の苗木を植栽してはどうか」と意見を出すと皆が賛成した。昭和47年5月、秋山君が有馬君、石井君、杉山君と一緒に権現山を訪れ、奈賀子夫人及び地元の有志とともに桜の苗木20本を植栽する。この4人が同期生の中で最も早く権現山を訪れたことになる。59期生有志が正式に権現山の『遥拝所趾』を訪れるのは長野市で全国大会が開かれた昭和51年8月であった。さらにこの地に桜を植樹し「観桜会」を兼ねた依田翁顕彰碑完成を記念した碑前祭を行うのは昭和62年4月29日であった。