銀座一丁目新聞

茶説

天下人の乱心いさめる花いくさ

 牧念人 悠々

篠原哲雄監督・鬼塚忠原作の「花戦さ」を見る(6月8日・東宝シネマ府中)。天下人豊臣秀吉の乱心に剣ではなく花で挑み勝利する物語である。武力に芸術で対抗する発想が良い。それにしても映画館のお客さんがまばらであったのは残念であった。

「花戦さ名優に酔ふ夏の宵」(荒木盛雄)

映画は永禄3年(1560年)5月。清州城で織田信長に池坊専好(野村萬斉)が花を立てるシーンから始まる。専好は京都「紫雲山頂法寺」の坊さん。寺は「六角さん」と呼ばれる。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長である。テーマを「昇り竜」と決め、山から切り出した見事な曲りを見せる松を一瓶の要、「真」として菖蒲の花葉を組み合わせる。花の後ろにかけられた掛軸には一羽のたくましい鷹の絵。しばし眺めていた信長(中井貴一)が「見事なり」とバッシと扇子を打った。途端、つないであった松の継ぎ目が折れてしまう。そこをすかさず木下藤吉郎((市川猿之助)が「さすが上様のご意光、見事扇子の音で松が折れてしまいました」と手を叩く。その機転でその場が無事におさまる。その場には後に専好と美の心友となる宗易・千利休(当時39歳・俳優・佐藤浩市)らもいた。秀吉24歳。前田利家(22歳・俳優佐々木蔵之介)、信長23歳、専好25歳であった。

永禄4年9月、宗易から専好に招待状が届く。茶室の床の間には竹の器に短い薄の葉と蕾んだ小菊がいけられる。夏だというのに初秋を感じさせる。二人の間で花と茶の問答が交わされる。宗易は言う。「専好殿の花には『生きる力』を感じます.それでいて違う材料同士が他と調和しゆずりあう。そんな謙虚な心を感じる花が好きなんです」。芸術に明日を感じその調和に謙譲を知るとは見事というほかない。

「相対す茶室一輪牽牛花」(荒木盛雄)
「茶と花の巨匠挑めりはたた神」(荒木盛雄)

映画には原作にないエピソードがある。戦乱の時代、京の賀茂川の河原には飢餓人の骸が横たわる。時折、専好が河原で花を手向けて弔う。或時、あとで分かるのだが画家無人斉の忘れ形見の女の子を拾う。抜群の画才を発揮する。

天正11年(1583年)秀吉は豪華絢爛な大阪城の築城に着手する。秀吉は関白に上る。信長自刃後3年である。秀吉はすべてに豪華さを求めた。服装・装飾品・建築。そうして茶道具。茶頭千利休に『黄金の茶室』の造営を命じた。この頃、利休は「侘び茶」の新境地に達しようとしていた。無駄なものをなるべく削り、ただ豪華で高価なものでなく謙虚な心で大切な客を精一杯もて為すことこそ美しいという価値観を尊重するに至っていた。

天下人には反抗することは出来ない。出来上がったものは茶室を分解して移動式で3畳の狭い茶室であった。池坊に「一輪にて数輪に及ぶなら数少なきは心深し」という教えがある。利休屋敷の庭に見事な朝顔が咲き乱れているという噂を聞いて秀吉が利休の庵を訪ねた。評判の朝顔は一本もない。茶室に入ると床の間に朝顔が一本だけ活けてあった。床の間の一輪を際立てたいために庭の一切の花を摘んだのだ。一歩間違えば打ち首もの。利休の美への追及はあくまでもまっすぐであった。

天正15年(1587年)秋聚楽第完成を記念して10日間北野天満宮の松原の土地で大茶会は開かれることになった。身分にかかわりなく茶の湯の好きな者、好きな自分の茶碗を持って、ないものはその代わりになるものを持参して参加せよとの達しであった。当日の10月1日、利休の前には長い行列ができた。利休は農民も子供も分け隔てなく茶をたてた。そこへ専好が松、薄、若松、伊吹、歯朶、撫子、琵琶のどの葉を使い奥行5尺、高さ10尺の大きな立花を立てる。仕上げに赤く色づき始めた紅葉の枝を花の左側にスーと伸びるように入れた。北野天満宮には金の茶室まで持ち込まれのだが開催は一日で打ち切られた。京の民の評判は「金の茶室を田舎者やな」と批判し「関白さんは猿やていうしな」という有様で利休のお茶と専好の花を褒める声が圧倒的であったからである。それが「金の茶室と草庵の茶室のどちらが美しいか」という利休に対する関白の問いとなる。さらに大徳寺の上層部に設けられた利休の木像が問題となる。利休は一切言い訳をせず詫びもいれない。前田利家、専好の忠告も聞きいれない。利休は答える。「秀吉様は傲慢にも『美』ですら自分の意に従わせようとしているのです」「ここで詫びればそれは私でなく私の美が、私の茶の湯が否定されることであり、否定されることを認めることになりますわたしにはできないのです」

天正19年(1591年)2月28日利休は切腹した。時に68歳であった。秀吉54歳。この年の8月秀吉の嫡男鶴松が3歳で死去した。巷では利休のたたりと噂する。秀吉が暴走する。秀吉を誹謗したものを子供も無人斉の娘も六条河原で処刑する。六角堂の世話役で弟子の十一屋吉右衛門(高橋克実)も殺される。専好は秀吉へ一矢報いることを決意。前田利家の協力を求める。文禄3年(1594年)9月26日前田邸に秀吉がくることとなった。専好は弟子たちを連れて3日前に出向き前田邸の床の間に16尺の松を特定の大きな器に置き、それに杜若を添えた。その花言葉は「幸福をもたらす」・このころ花言葉があったか知らないが確かに専好に幸運をもたらした。信長の立花の際は菖蒲(花言葉・心意気)であった。“菖蒲から杜若"へ此処に専好の成長の姿が見える。作業終わって弟子たちへ破門状を手渡す。万一の場合咎が及ばないためである。

秀吉がこの立花を見て褒めたのは言うまでもないが意外な仕掛けがあった。花の後ろに4幅の掛軸があった。画家無人斉の20匹の猿が描かれている。たちまち秀吉の顔が変わった。だが、秀吉は見ているうちに緑の松と紫の葉の取り合わせに清州城に立花を思い出した。その時、信長は「猿よ茶と花を、人の心を、大事にせえよ。そういう武将になれ」と言ったのだ。そして「この戦、わしの負けじゃ」といったという。見事、専好は「花戦さ」に勝利した。奇想天外、弱者の起死回生の戦略であった。利休が専好にあてた辞世の言葉は「茶のいくさ 花のいくさ 我茶人として生きる 花の人として生きよ」であった。