銀座一丁目新聞

追悼録(636)

ハマの政商 中居屋重兵衛

万延元年(1860)3月3日、春には珍しい降りしきる雪のなか、水戸の浪士関鉄之介ら18名は桜田門外で大老井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の登城行列を襲撃した。まず先供のものに訴状を出すふりをした浪士が切り付け、護衛の武士が前へ走った隙をついて大老の籠をめがけ近寄った浪士のピストルの号砲一発を合図に隠れていた浪士らが一斉に殺到し、乱闘のうえ大老の首をあげた大事件であった。なぜ、居合術、槍術に長じていた大老が駕籠から出られなかったのは検視の結果、腰から太ももに合図の銃弾が貫通していた。

当時とすれば武士として渡り合えなかった不名誉な死であり、井伊家断絶かと思われたが幕府が病死ととりつくろったのであった。日本の権力を一手に掌握して、安政五年(1858)大老となった直弼は、時代が許さず、勅許を仰がず米・英・蘭・露と開国の通商条約を結ばざるを得なかったが、大老としての苦衷も攘夷派には通じない。不平分子に直弼は安政の大獄を強行し、前途有為な志士たちを多数処刑してしまった。悲憤した水戸藩脱藩の浪士は、大老暗殺を決行した。江戸では「掃部様の死」として震駭した重大テロ事件であった。逃亡途中、負傷で力尽き斃れるものや逮捕されるものもあったが、ちりじりに逃亡した犯人や関連者の追及を幕府は徹底的に行った。

避暑地の軽井沢から浅間山を左に鬼押し出し、浅間山噴火の泥流で埋まった鎌原を過ぎ国道145号線の三原の町(JR 吾妻線万座鹿沢口駅)を横切りさらに万座温泉、志賀高原へ向かい上り坂を少し上がった左手に「中居屋重兵衛生家」という標柱が立っている。万座温泉、草津白根などをドライブの途次、なにも予備知識なく立ち寄ったのだが、群馬によくある2階を蚕室にした現在も一族の方がお住まいの庄屋さんだった大きな農家であった。旧建物は、火災で焼失し、小生の見たのは、建て替えた家で、ご親切に小冊子もいただいた。

中居屋重兵衛は文政3年(1820)上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県嬬恋村)に生まれ、本名黒岩撰之助、進取の気性を持ち、20才で江戸へ出て日本橋の書店に身を寄せ、剣客斎藤弥九郎に剣術を、江川太郎左衛門と高島秋帆に砲術を、蘭医伊東玄朴より医術を、儒者林鶴梁(尊王攘夷派)より儒学を学んだ。師はいずれも当代の第一人者であった。35才で日本橋に店を構え5年くらいの間に火薬関係書物を出版し、生糸のほか火薬の製造、各地の物産の販売をし、財を成す。彼の生家の近くには万座、草津、白根など火薬の原料となる良質の硫黄が産出され、特に造詣が深かった。

幕府の横浜開発の奨励もあり、安政6年(1859)、重兵衛40才で横浜村本町四丁目に横浜随一の銅板ぶき赤がね御殿といわれる間口30間(約55m)の2階建ての店を構え、従業員60名の貿易商となった。彼の扱った商品は、得意の生糸のほか、火薬、陶磁器、真綿、漆器、石炭、油など、塩乾物、農産物、織物、鉱物、工芸品等外国向けの商品も多岐にわたり、諸大名へ火薬、雷管、を納入、ピストルなどの銃砲も扱って、横浜一の大豪商にのしあがった。前年、彦根藩主井伊直弼は大老に赴任している。

重兵衛は外国商人と対等に渡り合い、トラブルの調停役でも一歩もひくことはなかった。水戸藩にも火薬類をおさめ、尊王攘夷派の藤田東湖が眼をかけていた商人であった。また彼も尊王攘夷こそ日本国を維持する正論と考え、同志の志士たちの活動資金を支援し、また、志士に洋式をまねた自家製のピストル5挺を渡していた。重兵衛もまさかその一挺が大老暗殺に使われるとは思わなかったのではあるまいか。浪士の一発が歴史を変えた。幕府の詮議は苛酷で執拗を極めた。逃亡の犯人も次々に捕えられ、文久元年(1861)、重兵衛42才、横浜出店よりわずか2年、彼は詮議の手が及んで来たのをいち早く感じ取り、突如、妻女を離縁し行方をくらました。房州へ逃亡ともいわれる。かつて映画「動天」では御殿のような家に火薬をまいて火を放ち終幕となったのを覚えている。ピストルか、一説には幕府の禁令を破った商取引か、原因は謎である。

ちなみに、鎌倉の下馬交差点の踏切近くの上行寺には、新潟から諸国を廻って逃亡し最後に同寺に寄宿し、同志のほとんどが死滅したのに絶望し、文久2年(1862)3月3日の夜、25才で割腹した犯人の一人広木松之介の墓がある。

余談だが、小生の妻の姻戚に「芦名のおじさん」の話がある。明治から大正にかけて、横浜本牧あたりの埋め立てで大儲けをし、当時で暖房、乾燥室を備え使用人多数、自家用人力車を持ち、豪邸を構え羽振りの良かった人がいたそうだ。ところが、突如、理由不明で一家失踪、音信が途絶えた。北海道からアメリカへ渡ったとの風聞はあったらしいが、ついに行方は杳(よう)として判らなかった。ただ、今でも根岸、磯子間の横須賀街道の住まいのあった近くには「芦名橋」という名だけが残っている。

(参考文献)
中居屋重兵衛のしおり 同顕彰会編
炎の生糸商 中居屋重兵衛 萩原 進著 有隣新書
桜田門外の変 吉村 昭著 新潮文庫

(相模 太郎)