銀座一丁目新聞

花ある風景(631)

並木徹

「おだまり、ローズ」を読む

ロジーナ・ハリソン著「おだまり、ローズ」(監修 新井潤美・訳 新井雅代・白水社刊・2014年8月25日発行)を読む。2年半前に出た本である。知人に薦められて手にした。イギリスの子爵夫人ナンシー・レディ・アスター(イギリス初の女性下院議員)付き使用人として35年を過ごしたメイドの回想録。自由奔放に振る舞う女主人に「おだまり、ローズ」と言われる。この言葉に主人と使用人の間柄を超えた人間的温かさを感じる。子爵夫人に聞かれる前に本当のことを言ってしまうという戦術で対応した著者ハリソン。両者の間で展開する物語はミュージカルである。

それにしても20世紀前半「古き良きイギリス」には大富豪がいたものだと感心する。使用人はアスター家をはじめ別宅。レストハウスなどを含めた99人を数える。本宅には40人も泊まれる別棟もある。猟場も厩舎も練習ゴルフ場もある。第1次大戦のときはカナダ兵のために陸軍病院を建設する。費用はすべてご主人アスター卿が負担する。終戦時この病院には600人の患者がいた。もう助からないと思っていた患者の一人はレディ・アスターに励まされ元気になったら金時計をあげるといわれ4回の手術を受けて元気になった。その患者は金時計をせしめただけでなく、アスター家で働くようになった。富豪の寄付は半端ではないのに感心する。

子爵家ではしばしばパーティを開く。招待客の序列は貴族名鑑、紳士録などを参考にする。マハトマ・ガンジーもウィンストン・チャーチルも招かれている。レディ・アスターはひとつのテーブルになるべく多くの人を詰め込もうとするのでお客様は窮屈な思いをした。チャーチルも「30皿も料理が出てきたがああ窮屈では何も食えたものじゃない」とこぼす。別の本にはある時、レディ・アスターが「チャーチルさんあなたが私の夫ならコーヒーに一服盛りますわ」というと、チャーチルが「アスターさん私があなたの夫なら喜んでそのコーヒーをのみますよ」と答えている。それだけ夫人に魅力があったのであろう。

アスター卿は馬好きであった。もちろん厩舎もある。アスター卿は馬券を買わなかった。或時、競馬場で執事のリーがダービー卿の従僕と出くわした。彼が言った。「うちの旦那様のサンソヴィーノが一着間違いないそうだ。保険としておたくの旦那の馬サンジェルマンの複勝(3着まで入れば配当がある)を買うからあんたはうちの旦那の馬の単勝(1着)を買うといい」執事のリーはその通りに買った。結果は従僕の言う通りで二人は休日を楽しむ軍資金をたっぷり手に入れたとか。イギリス人は競馬を「クイーン・オブ・ザ・スポーツ」として親しむ。昨今、日本でも投資として女性客の姿が多くみられる。私は競馬の心得は「欲張らず」「時に補助線(ひとつかふたつ穴馬を買う)を引いて楽しむ」ことにしている。

第2次大戦ではプリマスでドイツ軍の空襲に遭う。近くに落ちた爆弾で玄関ホールのガラス部分が吹き飛んだ。夫人は地下の防空壕へ降りながら詩編23(ダビテの歌・6章)を暗誦する。さらに壕に落ち着いてから詩編46(11章ある)を口ずさんだという。著者は「ゆったりと落ち着いたそのお姿は何も恐れていないように見えました」と記す。私も神奈川県相模原の陸軍士官学校在学中空襲の経験を持つ。昭和20年4月だけでも7回も空襲を受けた。その都度、課業を中断するか対空配置についた。一回だけ低空で飛んでくる艦載機に応戦した。別に怖いと思わなかった。詩編46の9章には「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」とある。士官候補生は聖書も経文もとなえず、ぶざまな死に方はしたくないと念ずるのみであった。

1964年5月2日レディ・アスターはこの世を去った。夫人の指示でローズには年金が支給され、生涯困らないようとりはかられたという。