銀座一丁目新聞

花ある風景(629)

相模 太郎

秩父事件

古代から歴史のある秩父は荒川の流れに沿った山あいの段丘にある。東京湾に南下する荒川がここだけは逆に北上する。神社仏閣、風光明媚、俳人の方々には絶好の地であろう。本誌4月10日号「花ある風景」に掲載の並木徹氏の「昨年10月末の秩父の秋俳句紀行」の雅やかな記事を拝見した。句行の悠々氏に比べようもない一介の野人の小生、昨年4月1日に秩父34観音巡拝を終え、西国・坂東とともに百観音巡拝を成就した折、明治17年(1884)勃発した秩父事件の古跡に処々で遭遇し詳しく訪ねて見たかった。幸い9月に、後輩のT君に再度の秩父巡拝に誘われ、彼が所有のベンツを運転してもらって、ついでに歴史探訪もお願いした。

秩父事件とは埼玉・群馬・長野県の半ば軍隊のように組織化された農民等数千人が武装蜂起し、警察では及ばず軍隊の出動で鎮圧された特異の大暴動で、その底流には当時の自由党(党首板垣退助)の自由民権運動があったとされ「秩父困民党」と呼称した。結局、警察官側5名、困民側25名余の若者が、母なる荒川に、本誌前号掲載の宮前和子さんの句「柞紅葉」(くぬぎの葉)のように風に吹かれ散っていった。

秩父は荒川の谷深く、傾斜地が多く田畑が少ないので当時は桑を植え養蚕業で生計をたてる農家が多かった。現在も旧い農家では2階建ての住居で、1階を住居、2階を蚕室とした面影の在る家を散見する。明治14年(1881)ごろより大蔵卿松方正義による緊縮財政、増税政策がこののどかな山村を襲った。秩父地方は深刻な不況に見舞われ、主力収入の生糸は大暴落し、高利貸しへの返済もできず破産が続出した。その解決に中心となったのが自由党員またはそれに同調した農民といわれている。高利貸し、裁判所、郡役所、警察署にたびたび請願し、負債返還の延期を願い出たがいずれも却下され、ついに近県農民を巻き込んで百姓一揆の範疇(はんちゅう)を越え、「困民党」と命名し武装蜂起に発展、警察で収まらず、憲兵隊を含む軍隊が出動し、死傷者多数を出した特異な事件であった。

明治17年(1884)11月1日、(偶然、並木氏の紀行のころ)遂に武装した農民を主とする同志、困民党は約3000名、下吉田村の椋(むく)神社(竜勢花火で有名)に集結し一斉蜂起した。 組織は総理(田代栄助)、副総理(加藤織平)、会計長(井上伝蔵)、参謀長(菊池貫平)、大隊長、小隊長、兵糧方、合薬方、軍用金集方(井出為吉)、小荷駄方、伝令使とし、実戦は鉄砲(猟銃など)隊、竹槍隊、帯剣(刀)隊がおこない、まさに農民軍であった。厳しい軍律もあり「金品を私に押領」「女犯」「酒宴遊興」「私恨の傷害」「命令違反」の五条の禁止を守らぬものは斬るという厳しいものであった。

秩父困民党と書いた白旗、ムシロ旗を立て、沿道では決起部隊が益々ふくらみ、手筈どおり各所に分かれて高利貸宅へ軍用金の献納、武器の供出、借金の半額放棄、据え置き、年賦返済を交渉しきかぬときは家屋破壊、焼き討ちをした。音楽寺(秩父巡礼23番)の鐘(現存)を合図に荒川を渡渉した一隊は、警察署、役場を襲撃占拠し、公文書などを焼却するという大暴動となった。警察官の犠牲者も出てついに11月3日には軍隊が出動、同胞相討つ悲劇、秩父地方は出口をふさがれ完全に包囲され、翌4日には離散、逃亡または、降伏の憂き目に会うことになった。

ここで、特筆する井出為吉、菊池貫平は信州佐久南相木村の旧家の出身だ。当時鉄道のない時代、秩父より信州へは十石峠越えが連絡路で養蚕の流通に使われていたのであった。現在の国道299線(武州街道)今でも十酷峠といわれる難所を、荷を担ぎ徒歩一日で突破していたのであった。繭を主とする物流に信州より秩父経由東京、横浜への主要道、当然沿道の人たちは影響を受け事件の思想に賛同したに違いない。むしろ上記のふたりは、ある程度の党の主導権もあり秩父から、からくも敗走できた一隊を連れ、秩父の残党、佐久の同志たち数百名をまとめ、十石峠を越え、11月7日ごろから佐久一円の高利貸しを襲い活動するが、9日には警察隊と高崎鎮台兵の出動により八ヶ岳北麓、現在の小海線の馬流(まながし)駅のあたりで鎮圧され離散、降伏する。

暴動後、参加者、逃亡者の徹底した追求、逮捕での尋問は峻烈を極め、死刑7名ほか約4000人が処罰され獄死者も相当出た。当時の人口を考えれば多くの元気な若者は参加し、各部落は女子、老人、子供が残されたに違いない。幹部も離散して、数年も全国を逃亡の末、逮捕されたものもいた。特異なのは井上伝蔵(会計長)で、遠く北海道の東部、北見で一生を別名で妻子を持ち、遺族に死に際に事実を明かした者もいた。また、映画「草の乱」でセットになった伝蔵宅が残存する。佐久の井出為吉の生家は子孫のお宅が現存していて冊子をいただいて来た。ちなみみに秩父には百メートルも上がる竜勢花火という木砲ロケット花火が昔から祭礼などで使われ、これを農民が水平射撃で使用したそうだ。また、政府が使用した草創期の軍隊ではあるが、村田銃、新式電信や電報が情報伝達に威力を発揮したのはいうまでもなかった。

今は秩父34か所の札所からお遍路さんが唱えるご詠歌が聞こえて来るのどかな落ち着いたまちであり、歳月人を待たず、133年前に起こった騒動、そして多数出た官民犠牲者のことは、セメント製造のため採取され削られた秩父の象徴武甲山の昔の山容とともに忘れ去ろうとしている。

映画「草の乱」、NHK大河ドラマ「獅子の時代」
(参考著書)
秩父困民党 井出孫六著 講談社現代新書
秩父事件 井上幸治著 中公新書
埼玉県・長野県・群馬県の歴史散歩 山川出版社

(筆者撮影)


秩父の象徴 武甲山

集結した椋神社

合図の音楽寺梵鐘

困民党戦士の供養碑

井出為吉の生家

馬流の戦死者供養墓