銀座一丁目新聞

茶説

「春光や神話に遊ぶ巨岩絵」

 牧念人 悠々

昨今は外出の機会が少なくなった。老いては教養(今日の用事)と教育(今日の行くところ)に心掛けよとは良く言ったものである。そこで、友人下川敬一郎君の絵を見るため「創元展」(76回)に行く(4月5日。国立新美術館)。創立から77年、700名の会員を擁する創元展である。友人の絵は15区画にあった。日向神峡の神秘的な巨岩を描く。写真に収める。ここには太古の昔、天馬が蹴って出て来たという伝説が残る蹴洞岩(ケホギイワ)がある。しばし絵の前にただずみ、感慨にふける。「高千穂の昔話」にこんなことが書いてあった。瓊瓊杵尊が天照大神の命によって高天原から雲を押し分けて降りたところが日向、高千穂のニヒの峰であった。困ったことに当たりは真っ暗で何にも見えなかった。すると2人の男が「稲千穂を抜いて籾を作りなされ、それを四方に投げ散らすと空が明るくなるでしょうという。早速引き抜いた稲の千穂を手のひらでもんで籾を作りそれを四方にまき散らすと、空が見る見るうちに晴れ渡り日や月が大地を照らしはじめた。このためこのあたりを”高千穂”と呼ばれるようになったという。絵の中に描かれたさまざまな巨岩を見ていると太古の昔を思う。手元にある古事記(倉野憲司校注・ワイド版岩波文庫)には瓊瓊杵尊は「名は天邇岐志国岐天津日高日子番能瓊瓊杵芸命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)」。注によると、アメニキシクニニキシは「天饒し国饒し」の称辞か。ホノニニギは「穂の饒饒」の意か。稲穂の豊かに実ることに因んだ名とある。瓊瓊杵尊は「この豊葦原水穂の国は汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。故、命の随に天降るべし」と命じられる。巨岩は見る人によってさまざま感慨を呼ぶ。絵はそれだけ人生を豊かにしてくれる。「絵がよくわからないという人がいるが自分がよいと思ったものが一番いい絵である」とはある美術評論家の教えである。会場に幾多の入賞作が並べてあったが友人の作品はそれらににも劣らず素晴らしい。

「春光や神話に遊ぶ巨岩絵」悠々
「春の風太古へ誘う絵画展」悠々

同期性の中に絵を画くものが少なくない。みんなうまいのに感心する。北俊男君は毎回年賀状に直筆の絵を印刷する。今年は湖を抱く山のふもとに動物が戯れる絵であった。平成23年9月の全国大会のプログラムに彼の描いた靖国神社の絵を使った。たまたま代表幹事であったので彼に「何か書いてくれませんか」と頼んだら「何がいいか」と言うので即座に「靖国神社」と言った。出来上がったのはいい絵であった。何度も描いたのであろう。ひとことも言わなかった。いい同期生だ。

下川君とは昭和18年4月陸軍予科士官学校在学中の1年間に過ぎない。彼は翌年の3月末に航空士官学校へ行った。予科の1年間の同期生の契りは濃密であった。福田一区隊長(陸士51期)のもと、沼津の野営演習に習志野の野営演習に決戦の日に備え心身を鍛える日々を送った。昭和19年1月航空へ転科し福田区隊長への寄せ書きに「明朗快濶」と下川君は書いた。彼の生きざまはまさにその通りであった。定年後、絵を勉強する。人生の余白を絵で楽しむ友人は今や画伯である。

「春日和余白楽しむいま画伯」悠々