銀座一丁目新聞

茶説

毎日新聞に届いたベアテの贈物

 牧念人 悠々

今から12年前、藤原智子監督の映画「ベアテの贈物」(The Gift from Beate)がロードショーとして岩波ホールで上映された。ベアテ・シロタ・ゴートンさんは日本の敗戦後、GHQ民生局の一員として日本国憲法草案作成に携わり、第14条の人権と第24条の男女平等を書き加えた。この条文は戦後日本女性の地位向上と権利にとって強い後ろ盾となった。5歳の時、世界的なピアニストの父レオ・シロタと母とともに来日、15歳で両親を残してサンフランシスコのミルズカレッジに入学、卒業後はタイム誌で勤務、戦後、両親と再会するためGHQの一員となって来日したものであった。映画は日本女性の幸せを願うベアテさん自身の情熱に支えられてこの条文が書き加えられたことを描いた作品である。

新憲法の公布は昭和21年11月3日。21年春、東大初の女子学生が21人。21年4月の戦後初の総選挙で参政権を獲得した女性2千50万人。その66.97%が投票、女性候補39人が当選する。だが、女性の社会への進出は遅々たるものであった。初の女性大臣は昭和35年7月の池田勇人内閣の厚生大臣中山マサさんである。男女平等と言いながら現実の世界は女性の地位も権利も男性の意識も低く弱かった。例えば交通事故などで遺族に支払われる損害賠償額”命の値段”は女性の場合男性に比べて極めて低くかった。女性の定年が30歳である職場もあった。同一労働をしながら男女間で不平等な格差がひどかった。

これらの現実を、事実を女性記者たちは折に触れ、機会をとらえて熱心に力を入れて報道してきた。私が今でも覚えているのが当時生活家庭部にいた女性記者の「記者の目」(平成11年1月26日)であった。「まったくもってふざけた話だと、怒りを覚えるのは私だけであろうか」という書き出しで「バイアグラが申請して半年で認可されたのに径口避妊薬ビルは申請から9年かって認可された(1999年6月17日認可・薬品発売9月20日)。アメリカでは1936年に認可され世界保健機構も安全紙が高いといっているのに日本の反応は他国と違って際立って異なる」と痛烈に男性本位の「性」論理を批判していた。認可までの9年の間、内閣は8度変わり8人の厚生大臣は無為無策、『男尊女卑』ここに極まれりと言ってよい。彼女の結びの言葉は「やはりふざけた話だと、私は思うのである」であった。日本の社は万事に男性論理が罷り通っていた。女性記者たちは折に触れ、事あるごとに女性問題のニュースを読者に訴えるとともに自分の務める新聞社首脳陣に自覚を促がせるためにも書いていた。新聞社と言うところ、表面は先進的に見えても内部は極めて保守的である。昔、「今年女の子が入ったのか、女に新聞記者が務まるのかね」と言った編集局長がいたぐらいである。

この4月、毎日新聞編集局に社会部、政治部などに4人の女性部長が誕生する。少し遅すぎる。もちろん、既に女性の部長も論説委員もいる。一挙に編集局に4人とは明るいニュースだ。私が昭和53年出版局長の時、2人の女性が部長職につけた。実は昭和50年、社会部長の時、女性記者を東京都庁記者クラブのキャップにしようとしたところデスクから反対されクラブに在籍の記者から「女性をキャプにするならほかの部署に移してください」と言われ思いとどまったことがある。後で強行すべきであったと反省した。スポニチ時代も初の女性部長職を誕生させた。問題は女性か男性かではなく「よい仕事ができるか、何をするか」である。私が社会部長になったのが昭和51年3月、40年たって初めて女性社会部長の誕生である。「ベアテの贈物」が十二分、実力を発揮するのは間違がないであろう。私はどんな紙面が出来るか楽しみにしている。