銀座一丁目新聞

追悼録(626)

北一輝と中野正剛の交流

福岡に住む知人の長谷川真弓さんからメールと北一輝が獄中から中野正剛にあてた手紙のコピーが送られてきた(2月27日)。『今日の銀座一丁目ブログを拝読いたしました。北一輝の事を書かれておられましたので、中野泰雄先生(中野正剛氏の四男)から頂いたお手紙の事を思いだしました。平成13年の1月に届いたお手紙ですが、それには「昭和11年1月13日、父・正剛は蒋介石総統と会見。北一輝、石原莞爾と共に陸軍の大陸侵略を留めるため日中首脳会談の実現を目指し、外務大臣・広田弘毅を説得しようとしましたが駄目で、二・二六事件で北は首謀者として始末され、亡き父と蒋介石との会談は実りませんでした」と書かれていました。獄中、北一輝は処刑前に中野正剛当てに手紙を送っています(コピーが福岡市の玄洋社記念館で展示されておりましたが、現在は記念館老朽化のため閉鎖。福岡市博物館に収蔵されています)。内容は胸に迫るものがあります』

中野泰雄著「政治家・中野正剛」上・下(新光閣書店)によると、北一輝と中野正剛の間柄を「政治的友人」とも「心友」とも表現する。2・26事件に連座、処刑された北一輝(輝次郎・昭和12年8月19日銃殺刑)が獄中から送った手紙の内容は次の通りである。

「一筆書き残し此の世の御暇申し上候 在獄中逢ひたしと思うこと幾十百回、偖て逢ふて何かせん、今も逢ひたし。而も亦逢ふて何かせんや。今後君の枕頭に立ち君の夢に入り物語り可申候。神仏の御心により刑死せられる小生の為却て御悦び披下度候、益御雄健御昌栄大志御達成の程祈り上候。 再拝

時に女房を直接御問按願上候

北 輝次郎
中野正剛様」

内容は簡単だが心友同士の心に通うものがある。お互いに会ってもしゃべることはそう多くはないであろう。それでも会いたい…。その気持ちが痛いほどわかる。中野正剛、50歳、北一輝53歳であった。2・26事件が起きた朝、中野正剛は北一輝へ電話(中野局5508)をしている。その時、北は「今度は俺に任せろ。君は動くな」と言ったという。北は事件後、2月28日、逮捕されて処刑されるまで二人の会う機会がなかった。二人を結びつけたのは明治44年(1911年)11月の孫文の辛亥革命であろう。この時、中野正剛は頭山満、犬養毅とともに上海に行っている。北も革命支援のために上海にいた。時に中野25歳、北は28歳。北は青年将校たちに大きな影響を与えた「国家改造原理大綱」を大正8年、上海で執筆している。中野正剛もまた刺激されて「国家改造計画綱領」を書く。北の聖典より遅れること14年後の昭和8年10月にこの著書を世に問うた。5・15事件の海軍青年将校・三上卓は歌う「権門上に驕れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」(2番)大志ある青年が国を思う鬱勃とした気持ちを筆にしないわけがない。それが世に残る著書になった。2・26事件が起きた際、北はあまりにも無計画な蹶起軍にこの反乱が国家改造のクー・デターにならないと悟った。号外が伝える「革命軍」を「あえて名付ければ正義軍」と言ったという。北の処刑について終戦時、東部憲兵司令官であった大谷敬二郎憲兵大佐(陸士31期)がその著書「昭和憲兵史』(みすず書房)で「北を首魁として極刑にしたことは、軍が粛軍の名において青年将校運動の根を断滅しようとしたたくらみ以外に、この処罰を肯定することは出来ない。それは政治裁判であり暗黒裁判であった」と言っている。死の前日、北は法華経文の裏に養子大輝(辛亥革命リーダー譚人鳳の孫)へ遺言を書いた。

「汝の生るるとより父の臨終まで誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此の法華経のみを汝に残す。父の想い出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷える時,怨み怒り悩む時、又楽しき嬉しき時、この経典を前にして南無妙法蓮華経と唱え念ぜよ。然らば神霊の父、直ちに汝の為に諸神諸仏を祈願して汝の求むる所を満足せしむべし」(前掲中野泰雄著書より)、処刑前夜、西田税夫人初さんは中野桃園町の北家の広い応接間に香をたき、北夫人スズ子さんと二人で寝ずに夜を明かした。8月19日早朝、2千坪ある庭の松の木に、見たこともない鳥がいっぱい群がって異様な雰囲気であったという(澤地久枝著『妻たちの2・26事件』中央文庫)。その6年後の昭和18年、中野正剛もその年の1月元旦朝日新聞に書いた「戦時宰相論」で東条英機首相の忌避に触れ10月に逮捕され取り調べを受けた後自決、この世を去った。遺書は簡潔であった。「決意一瞬、言々無滞、欲得三日閑、陳述無茶、人ニ迷惑ナシ」。10月31日、青山斎場での葬儀には陸軍予科士官学校在校中の私はたまたま日曜外出であったので参列した。金子雪斎が開き、中野正剛が総裁を務める大連振東学舎に4年間在籍、その謦咳に接した縁ゆえである。

(柳 路夫)