銀座一丁目新聞

安全地帯(530)

相模 太郎

鎌倉北条氏滅亡余聞

5年前に書いた続編になるが、あえて鎌倉としたのは伊勢新九郎(北条早雲)の開いた小田原北条氏と区別するためで、源頼朝の開府した源氏三代、北条時政が継ぎ最後に新田義貞に攻められ滅亡した北条高時の政権のことを言う。新田義貞は上野国新田の荘で幕府打倒と挙兵し、一路鎌倉を目指して鎌倉街道を南下した。途中、小手指原、久米川、分倍河原、関戸、藤沢などの激戦は前述したので省略するが、一般には余り知られていないことを書いてみよう。

まず、義貞の進軍路の鎌倉街道は、大東亜戦争の米軍相模湾上陸コロネット作戦のほぼ同一進路にあたる。勿論猛烈な砲爆撃のすえの上陸米軍は逆の北上だが、途中一部を横浜、東京攻撃軍として東に分けるとともに熊谷市周辺に橋頭保を築き、、中山道、東北道、常磐道を分断し上越、北部の日本軍を防ぐ作戦を取ったようであった。相模川の東側を北上すれば大河は底の浅い多摩川、入間川などで機械化部隊の行動も容易だ。ただし新田の荘からは義貞軍は利根川を渡って来たのが違うだけだ。

緒戦は5月18日、鎌倉に殺到包囲した新田軍に対し主力はどうしても極楽寺坂切り通しを突破できず、鎌倉防衛に死力を尽くす北条軍は北方の小袋坂切通し、化粧坂でも敵を一歩もいれなかった。例外として新田勢の一族大舘宗氏の勇み足、わずかの手勢で稲村ケ崎から侵入しようとした抜け駆けもあったが失敗。全員戦死。近くに供養の11人塚が残っている。ここには後世、附近発掘の際出土した多量の骨の一部がおさめてある。

義貞軍の主力の本陣を現在の七里ヶ浜分譲地の最奥にある正福寺公園、かつてそこに建立されていた聖福寺に置いた。ちなみに聖福寺(廃寺)は皮肉にも高時の曽祖父の時頼が、わが子時宗(幼名聖寿丸)と弟宗政(福寿丸)の健やかな成長を願って建立した寺であった。近くに那智の滝、熊野権現(現存)もあった。いま、江ノ電極楽寺駅の周辺を歩いてみると切り通しに到る主要道路へ複数の谷が葉脈のごとく入り込んでいて、そこへ防衛軍を配置すれば侵攻軍を側背から矢でねらうことが出来る。進めば進むほど蟻地獄、義貞軍の苦戦のほどが判る。ついに聖福寺本陣を出て南下、稲村ケ崎に布陣したと思われる。かつて現地で小生ならここから攻めるとか、守るとか現地戦術のまね事を一人で考え、山坂を跋渉したこともあった。あの近くの霊山(りょうぜん)へ登れば市内は一望に見えるので攻撃軍はまず奪取したかったのだろう。そして海岸沿いの急峻地を苦戦のすえやっと突破したのは5月21日夜半と考えられる。

筆者は近くに在住なので、一度大潮時の引き潮の様子を見たことがある。近所のひとがバケツを持って200mほど引いた潮の干潟の岩の間にいるさざえやたこ、小魚など採っていた。稲村ケ崎を廻る渡渉可能の瞬間だった。ただし、底はごつごつの岩で、馬は渡渉不能、もし義貞の演出で5月21日夜半、黄金の太刀を投げ入れ、潮が引いたとしていたら、かれは近隣の漁師などから情報を収集し、演技をした達人というほかない。かつて有名な歴史家が渡渉の実験をされたそうだが、同地は多くの地震で隆起、沈降を繰り返すところ、最近も関東大震災で江の島南岸の岩盤が隆起しているので鎌倉時代当時はどうであったかわからず渡渉作戦行動はマユツバか?

稲村ケ崎の崖にあく幅2m高さ50㎝ぐらいのコンクリートの穴は、大東亜戦争当時、対米軍上陸の旧日本軍が構築した砲眼である。また、付近の砂浜は黒く、砂鉄が多いので当時は採取して刀(良刀には不向きだそうだ)などの武具、農具の作製に頼朝以来採取して利用していたようだ。もっとも鎌倉駅近くには刀匠正宗の24代子孫の店があり、近くの本覚寺には墓もある。

鎌倉へ侵入した新田軍は民家を焼き払い殺戮の限りを尽くし北条軍を東北の谷戸(やと)にある東勝寺へ追い詰めた。いまはこれまでと火をつけ、高時(31才)以下一門283人ほか郎党数百人が自決した。なかにも、長崎高重は腹かっさばいてはらわたを抉り出し、これを肴(さかな)にと差出し、面前の刑部大夫道淳は、「あわれ肴やいかなる下戸なりともこれを呑まぬ者あらじ」と盃の酒を呑んでから、腹十文字にかき切ったという壮絶な話もある。かくて鎌倉幕府は滅亡した。源頼朝の開府より約百五十年、正慶2年(元弘3年)(1333)5月22日であった。現在同所を発掘しても焼け跡の痕跡は出て来るがここから骨は出てこない。鎌倉では由比ヶ浜、極楽寺周辺各所で、数百から数千体の切り傷など損傷のある大量の人骨や、馬の骨が出るので死体はどこかにまとめられたのであろう。なお当時の馬の骨で長身の者が乗ると地面に足が着きそうなほど小形だったのが判る。馬上さっそうとはいかぬようだ。

滅亡後、高時の愛児万寿(邦時)、亀寿(時行)はそれぞれ家来に託され脱出、万寿はその後の裏切り者に殺害されるが、諏訪に逃れた時行はその後しぶとく再起を図り一時鎌倉を占領することもあったが、結局足利尊氏に捕えられ、龍ノ口(龍口寺門前)刑場で斬首されてしまう。これを中先代の乱という。

滅亡当時、幕府は出先機関として京都に六波羅探題、博多に鎮西探題、下関に長門探題を置いていた。遠隔地にいた悲惨な滅亡の様子は次回にしよう。

(参考文献)
鎌倉北条一族 奥富 敬之著 新人物往来社
きらめく中世 永井 路子著 有隣堂
新田町誌 第四巻
相模湾上陸作戦 大西 比呂志、栗田 尚弥、小風 秀雅著 有隣堂
鎌倉廃寺事典 貫 達人、川副 武胤著 有隣堂


東勝寺腹切りやぐら

東勝寺跡の発掘

京王電鉄分倍河原駅前
新田義貞銅像

稲村ケ崎

稲村ケ崎より由比ヶ浜方面
大潮で干潟出現

稲村ケ崎西側砲眼跡

先鋒で返り討ちに遭った
大舘宗氏の眠る11人塚

左は稲村ケ崎の砂
右は一般の砂

新田義貞の本陣
聖幅寺跡の礎石