銀座一丁目新聞

茶説

映画「沈黙」の意味するもの

 牧念人 悠々

角川映画・遠藤周作原作・マーテイン・スコッセシ監督の「沈黙」を見る(2月8日・府中東宝シネマズ)。棄教を拒否、拷問される日本人信者を見て転んだ宣教師セバスチャン・ロドリゴの物語である。キリストを信じて敢然と刑死する日本人の信徒にキリストは「沈黙」をまもる。「何故だ」とキリストに問いつづけるロドリゴの姿が焼付く。物語は1638年2月、島原の乱で3万5千人のキリシタンが悉く虐殺されポルトガルとの来航が禁止された直後から始まる。ロドリコは仲間の牧師フランシス・ガルベとともに大型ジャンクに乗船、酒飲みで裏切り者のキチジローの案内で澳門から日本のトモギ村らに密航する。上陸早々。キチジローの密告で捕まるのを想像する。思わず聖書の言葉を呟く。「されば一隊の兵卒は松明と武器とを持ちて此処に来れり」(魚師ヨハネの記録・18章3)「かくて、キリスト、わが身にくるべきこと悉く知り給いぬ…」(同18章・4・5)と続く。「同13章18」にはユダの裏切りが明言されている。物語もそのように展開してゆく。

「読むべきは聖書なり」と私に教えたのはメキシコの植物学者松田英二さんであった。いまから50年ぐらい前の話である。それからときおり聖書をひも解く。教えられるところが少なくない。

トモギ村の戸数200足らず、信仰の火は消ていなかった。マルコ福音書に曰く「ある種よき土に落ちしかば穂出でて実り、一つは30倍、一つは60倍、一つは百倍を生じたり」(同4章8)。トモギ村の信仰の中心人物のイチゾウとモキチが捕まり水磔(すいたく)に処せられる。波打ち際に十字架に組んだ木に体をくくりつけ潮が満ちてくれば顎辺りまで海につかる。2日も3日もたてば肉体も心もくたくたになり絶命する過酷刑罰である。百姓たちに見せつけて二度とキリシタンに近づけさせない様にする狙いであった。ロドリコは「神が人々の嘆きの声に腕を拱いたまま黙っておられるような気がして・・・」と思う。やがてロドリコも捕まり長崎に送られる。同じく捕まったガルベが死ぬのを目の前で見せつけられる。ガルベが転ばないため日本人の3人の信徒が簀巻きにされて船からつぎつぎに突き落とされてゆく。ガルベはそれを助けようと泳ぎながら追って死んで行く。「何ぞ、吾を見捨て給うや」司祭の胸を突きあげる。私も「神は存在するのか」と問いたくなる。

さらに訪日の目的であったイエズス会が派遣した長老フェレイラ牧師の消息を知る。彼の師でもあった。長崎の西勝寺で沢野忠庵と名を変えたフェレイラ牧師と再会。穴吊りの拷問を受け棄教、今は天文学の本の翻訳をしているという。自分の耳の後ろにある拷問の傷跡を見せて「棄教するよう」すすめる。またロドリゴは牢に居る間は信徒たちが拷問されているうめき声を絶えず聞く。すべてが井上筑後守の指図であった。

井上筑後守とかわすキリシタン禁制をめぐる問答は興味深い。「日本と申す男は、わざわざ、異国の女性を選ばずとも同じ国に生れ、気心知れた日本の女性と結ぶのが最上と思わぬか」「教会では女の生まれた国籍よりもその女の、夫に対する真心をどうやら第一と考えます」「醜女の深情けにほとほと因じ果てる男も世間にあるものだ」「この国では不生女と申して、まず嫁たる資格なしとされておる」「教えがこの日本で育まれぬとしたらそれは教会のせいではありますまい。むしろ女である教会と夫である信徒を引き裂こうとされた方々のせいだとおもいますが」

かくしてロドリゴも棄教して岡田三右衛門と名乗り妻と子を得る。最後にキチジローの告悔(コンヒサン)を聞く。原作者は「私はこの国で最後のキリシタン司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえ、あの人が沈黙していたとしても私の今日までの人生があの人について語っていた」と結ぶ。
私が宣教師であったら信者の拷問を目前に見て私も転ぶと思う。私には耐えられないからだ。転ぶか転ばないか、要は「心」の問題。自分自身で答えを見つけるほかない。

世界のキリスト教カトリック信徒12億人の頂点に立つフランシスコ・ローマ法王は平成26年1月15日、一般謁見で江戸時代に長崎の潜伏キリシタンが司祭不在の中、250年間も自分たちで洗礼を授け、信仰を守り続けたことを「模範」と称えた。平和と人間の自由を求め暴力を排するローマ法王の言動を私はたえず注目している。

要は「心」の問題。自分自身で答えを見つけるほかない。