銀座一丁目新聞

追悼録(624)

友人西村保君を偲ぶ

人恋しい。思わず「友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」(与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」)の歌を口ずさむ。
作家・元文化庁長官の三浦朱門が亡くなって(2月3日・享年91歳。妻は作家の曽野綾子さん)旧制高知高校で三浦朱門と同級生であった友人西村保君(平成12年5月26日死去・享年74歳)をしきりと思い出したからであろう。西村君は同じく高知高校の同級生の作家坂田寛夫の事もよく口にしていた。西村君は阪大医学部に進み産婦人科の医者になった。病院勤務を経て昭和30年代に尼崎で産婦人科を開業した。温顔で人当たりもよく、かんでふくめるような話し方をするので、患者の受けも良く、産院は繁盛した。中国の留学生の面倒をよくみた。そのため、中国語の勉強もしていた。

大連2中の17回生の会を「トナカイ」と命名したのは西村君であった。その理由は「トナカイは鹿でもなく馬でもなくラバでもなく牛でもないのにこの4つの動物の特徴を兼ね備えている。中国では『四不象』と呼ぶ。四種の動物の苦しみや悲しみそれに喜び含めてより深く共感できる能力を持っている。我々もそのように苦しみや悲しみや喜びを共感できる仲間でありたい」からであった。

西村君とは大連二中で同級であるばかりか、大連市の光明台、大仏山の中腹にあった『大連振東学舎』で4年間生活をともにした。戦後再会してから東京と大阪と離れていてもよく会って雑談した。私が大阪に出張の際、時には尼崎の医院に泊まった。私とはよくゴルフをしたが、ハンデシングルの西村君にはかなわなかった。次男・学君の就職の世話をし、結婚の仲人もした。平成5年2月、学君が二人の子供を残して42歳で急逝したさいには気の毒なほどがっくり肩を落としていた。

西村君と最後に会ったのは平成12年5月5日であった。大阪の同級生とともに労災病院のホスピス病棟に入院している同君を見舞った。進行性肺ガンで手術は不可能ということであった。彼自身は延命措置すべて拒否、死を待つばかりで、淡々としていた。私も彼と同じように延命処置をせず淡々としてあの世に行きたい。

(柳 路夫)