銀座一丁目新聞

安全地帯(528)

川井孝輔

懐かしの江戸川

北に 筑波嶺 西に富士 前には江戸の 清流を・・・・・・・・・・・・・・・・・
卒寿を迎えたこの歳になっても、くちずさむことの多い、我が「金町尋常高等学校」の校歌である。酔いしれるように、懐かしい此のメロデイが何とも心地よく、而も自慢したいほどに歌詞も秀逸だと思えるのだ! そして
心の友を 仰ぎつつ いざや金町 文化の国に 咲きて香れる 月葛
と続くのだが、どうゆうわけか殆どの場合、前半だけをくちずさんでいる。筑波山・富士山・江戸川への思い入れが強いからだろうか。その母校は葛飾区金町、6号線に近い江戸川沿いに在る。

父の勤めの関係で金町に生まれ、幼年学校に入学する15の歳まで、其処に育った。旧水戸街道が社宅の裏を走り、今の6号線は当時13間道路と称し、旧道に並んでその輪郭を現わし始めていた頃である。放置された道路は子供にとって絶好の遊び場になり、その先は一面が田んぼで、メダカやザリガニを探したものだった。東の江戸川と西の中川に挟まれ、中央を横断した堤防上を常磐線の蒸気機関車が走っていた。電化したのは中学に入った頃である。丁度H型の地形で、父の工場は常磐線の北側中川沿いに、社宅は南側の江戸川沿いに在った。表題を江戸川と記したのは、昨年松戸の市立博物館で「特別展 川の道 江戸川」を観て、深い縁を感じたからである。因みにキャサリン台風では、常磐線の堤防が邪魔をして、北部一帯が大きな被害を受けている。

年が明けて肌寒くはあったが、抜けるような青空に晴れた一日、カメラをぶら提げて思い立った。普段都内に出かける時には、何の気なしに通過する金町駅だが、降り立ってみるとイメージが全く異なるものだ。駅前の見上げる程に聳える、ヴィナシス・マンションビルに驚く。聞けば42階もある由。昔は村程度の金町だった筈が、発展と変貌の激しさを改めて見る思いがした。早速母校を目指すが、それが意外に手間どる。何せ、田んぼだった筈の処が、立派な住宅街に変貌し、区画が整然となされたからだ。進行方角に違いは無いものの、何回かは尋ねた結果の到着だった。他校と同様に立派な三階建ての校舎は嬉しいが、昔の記憶は薄れて面影が思い出せない。森閑として人気も無く、中に入るのが躊躇される始末。心の中で80年振りをお詫びし、この場所を再訪出来た健寿に独り満足して、母校を後にしたのだった。

江戸川の流れは相変わらずに穏やかだった。だが、河岸は整然とした姿に一変している。昔の堤防には、瞼に残る桜並木が続き、春ともなれば花見客で大賑わいを見せたものだった。花の命は短いと言うが、桜の樹齢も長くは無い。当時すでに樹齢を重ねていたのだろうか、加えて戦時を経た事で、薪にでもされたのかもしれない。堤防は舗装が完備し、洪水対策は万全とみえるが、桜並木の無い江戸川堤には一抹の哀愁を覚える。

金町から江戸川に並行して京成電車が走っているが、柴又までの大部分を金町浄水場が占めている。昔は全く無関心であったのに、歳をとったせいか関心が持たれるのだ。折角前を通ったので、中を覗いて見たいと思ったが、関係者以外は入場お断りと、あっさり振られてしまった。万が一の事故による影響は計り知れないから、無暗には許可しないのだろう。善意に解釈して自らを納得させる。東京ドームの四倍程の広さと聞いたが、調べてみると26万㎡の面積。一日の処理能力は朝霞に次ぐ150で、墨田・江東・葛飾・江戸川・足立・荒川区の全域他、千代田区の一部に迄給水しているとあった。

有名な矢切の渡しに乗って、話のタネにし様と思ったのだが、休みだったのは残念至極。乗り場近くに、作詞・石本美由起 作曲・船村徹 唄・細川たかし 連名の歌碑が在り、カメラに収めたことで我慢する。
「つれて逃げてよ・・・・・・」「ついておいでよ・・・・・・」夕ぐれの雨が降る
矢切の渡し 親のこころに そむいてまでも 恋に生きたい ふたりです 

江戸川はその名の通リ江戸との縁が深い。「川の道・江戸川」の特別展に依れば、今でこそ野田市関宿で利根川から別れて東京湾に注いでいるが、その昔、関宿から南の埼玉県の松伏町まで、18㎞の下総台地と呼ばれる処を、人工開鑿したものだそうだ。近代は機械作業で、時間との闘いだけで済むが、当時の鍬・鋤だけでと言うことになると、尋常ではない。江戸時代以前の利根川は今の東京湾に注いでいて、その為江戸の街創設に当たっては、まず洪水対策が喫緊の大事業であった。その為、江戸川に分流して利根川本流の負担を軽減し、河口を移動させて現在の銚子にし、直接外海に放流したのだ。

最近またまた佐伯泰英の時代物を読み漁っている。交通手段の無い当時は、船が主なものだったが、この時代になると大事業が終わって、凡そ今の姿に近くなった。文庫本の舞台は大川(隅田川)の西、江戸城・南北奉行所・浅草・上野あたりから、東は本所・深川・両国近辺になる。東西に直線的な小名木川から新川(船堀川)を経て江戸川へ。そして行徳迄下って成田詣でとか、今に残る利根運河を利用して、利根川と江戸川を結ぶ流通のルートも出来ていた。野田に醤油が栄えた所以でもある。佐伯の文庫本や博物館で購入した江戸川の歴史本を読むと、如何に江戸川が江戸時代以降、東京延いては日本の発展に貢献してきたかが理解できて面白い。懐かしい郷愁と共に、大きな存在の江戸川に思いを馳せている。船は千石級の廻船から屋形船・伝馬船・数人が乗る猪牙舟まで、各種大小様々がある。森鴎外の小説にもなった「高瀬船」他、2~3を、コピーしてみた。以上


42階建てのマンション

わが母校・金町尋常高等小学校

穏やかな江戸川の流れ

万全な江戸川の堤

整備された江戸川の河原

広大な敷地の金町浄水場

休みだった矢切の渡し

矢切の渡しの歌碑

明治にも在った東京大洪水の惨状 風俗画報水害号から

佐伯文庫本にも出る猪牙船

江戸近郊八景の内 行徳帰帆

森鴎外の小説高瀬船は江戸でも活躍した

明治10年に就航した通雲丸
両国から江戸川・利根川水系でも活躍した