銀座一丁目新聞

安全地帯(525)

相模 太郎

遥かなる北のまほろば十三湊

文化審議会の答申で卑弥呼の墓とも言われる奈良箸墓古墳周濠などと一緒に史跡「山王坊(寺院)遺跡(青森県五所川原市)」が指定された(昨年11月19日)。山王坊とは、鎌倉時代の北辺の勇者、安藤氏の尊崇した大寺院のこと、現在ほとんど廃墟だがそこは、かつて私が鎌倉時代の正史と妻鏡を学んでいたころ、二度訪れた懐かしい場所であった。鎌倉時代東北の辺境であった津軽地方一帯を領した鎌倉北条氏の有力な得宗被官(とくそうひかん)(北条氏直轄の家来)安倍貞任(さだとう)の子孫とされる安藤氏が治めていた。鎌倉時代の正史「吾妻鏡」によれば文治5年(1189)9月17日の条に、中尊寺の金色堂に眠る藤原清衡が「白河の関から外ヶ浜までの二十余日行程の道筋に一町ごとに笠卒塔婆(かさそとうば)を立てた」とある「外ヶ浜」がこの附近に比定される。竜飛岬に近いそこは交通不便だが、津軽の象徴、岩木山(標高1625m)を南にリンゴ畑の多い南北に広がる沃野、津軽平野なのだ。ちなみに、笑い話だが陸奥の国の検地(税取り立てのため土地の状態調査)に来た役人が岩木山南麓まで来て、疲れ果て「山の北は何があるか」と尋ねた。土民は「海でございます」。役人は帰って行った。北の津軽平野は税がなかったとさ。また、太宰治の生家も近い。

北端、当時山王坊があった本州の日本海北辺に位置した十三(とさ)湊は、強風により堆積された自然の防波堤となった砂洲に守られ、白神山地を源とし岩木山の西側を北上し津軽平野を潤した岩木川河口の十三(じゅうさん)湖を経て海に出る所にある。古来、京都より鯖街道などを経て北上、小浜か敦賀港を出航し、日本海を能登の三国港・秋田を経由し、北海道(蝦夷)との交易航路の中継港として殷賑(いんしん)を極めた一大交易港湾都市であった。冬季こそ地吹雪で有名な寒冷の地(最近は地吹雪見学ツアーというのがあるそうだ)厳しかったであろうが、十三湖の北東側に福島城、北に唐川城、日枝神社、山王坊などの遺跡が多く安藤氏の栄華の跡が偲ばれる。

しかし、栄華を極めた十三湊も時を経て安藤氏の内紛、隣国南部氏の侵攻に加え江戸時代航易船の大型化、砂州の堆積により港の機能が衰え、現在は寒村になり。観光地としては、本数の少ないバスかレンタカーに頼らざるを得ない。私が最初訪れたのは30年ほど前の秋であった。安藤氏が尊崇していた寺院跡「山王坊遺跡」は幽邃を通り越して極めて淋しい十三湖(じゅうさんこ)の北の熊の出るような山中にあった。まだ発掘すれば多くの遺物の出るに違いないし、安藤氏の栄華を知るだろう。余談だが、唐川城跡近くで日本北限と思われるサルを見たことがある。下北半島には有名な北限のサルがいるが、ここ津軽半島北部でサルを実見したのに驚いた。会った人は少ないと思う。

十三湊は中世、日本海航路南北の中継地の港湾都市として栄え、現在、驚くことに大陸・蝦夷(北海道・サハリン・千島など)地と内地・特に京の都の文物の交流を物語る遺物が多く発掘され資料館に展示されて裕福な北辺の港湾都市を感じさせた。30年前訪れた時はちょうど発掘していた。十三湊の特色として中州に発展した幅数百メートルの南北の半島に珍しいのは住居群を中央あたり東西1.5mほどの土手で区切り、港に向けては武家屋敷、港湾関係官衙、など、南に一般の町屋集落の跡がある。小生が見たのは、町屋跡だったが、北辺としては安藤氏の治世のもと、相当賑やかだった痕跡が見受けられた。 さあさ出た出たもろこし船よ なみにゆられて そよそよと…    名所名所と十三(とさ)名所 出船入船 そりゃ名所 (十三の砂山節の一節)

現代ではこの地方はのどかなシジミ採りの小舟が三々五々浮かぶのどかな風景の寒村である。栄枯盛衰、岸辺では、十三湖で採れた黒々とした大きいシジミがのる「しじみラーメン」の暖簾が淋しく北風にはためいているばかりだ。

(参考文献)中世都市十三湊安藤氏―国立歴史民俗博物館編 新人物往来社
      幻の中世都市十三湊―国立歴史民俗博物館編
      よみがえる中世4 平凡社


北のまほろば (街道をゆく41)司馬遼太郎 朝日新聞社
唐川城上空より南方十三湊、岩木山を望む(国立歴史民俗博物館編の挿入写真より)

山王坊跡

境界土手

発掘現場