銀座一丁目新聞

追悼録(618)

101歳の画家・岡井揺萩さんを偲ぶ

画家岡井揺萩さんが亡くなったのをこのほど知った(10月8日・享年101歳)。知人の画家・岡井美原子さんの母親である。よく母親の個展の案内をいただきその都度見に行った。2014年4月29日号「銀座展望台」には「岡井揺萩さんの貼り絵展を観る(4月28日。東京・杉並区久我山4丁目・ギャラリー「藍」)とある。その時に「新緑や絵より雑談の百壽展」と詠んだ。岡井さんはお御年百歳であった。椅子に座って応対されていた。マスキングテープによる風景の貼り絵である。貼り絵より写真に近いが温かみが十分感じられる。お客は女性ばかりであった。2012年に揺萩さんから『小倉百人一首』書・画を頂いたことがある。大きさはA4。一番のから百番まで克明に描かれ優雅な筆運びで歌が記されていた。描かれた花がなんとも可憐、見ていて楽しかった。表参道で個展を開かれた際にはじめてお目にかかった。

揺萩さんの『小倉百人一首』書・画を説明する。歌に合わせた画を添えて一番の「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」(天智天皇)から百番の「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(順徳院)まで克明に描かれ優雅な筆運びで歌が記されている。「半世紀ちかく書画をこつこつ書いてきましたので記録として残したく百人一首を選びました」(あとがき)とある。

満州はハルピンにいた小学生のころ、正月遊びは百人一首であった。そのころは歌の意味はほとんどわからなかった。それでも40番「忍れど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問うまで」(平兼盛)ぐらいは察しがついた。中学生の時は寄宿舎生活となり次第に縁遠くなっていった。今はかるたでもトランプ遊びである。木箱に入った「百人一首」はどこへ行ったか行方不明である。10年も以上も前に毎日新聞時代の友人が年賀状に六番の「かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」(中納言家持)を記し、昭和の初めころ百人一首でこの歌を知ったと書いてきた。百人一首に自分の心境を伝えるのも一興である。

さて私の昨今の心境に相応しい歌を挙げるとすれば、96番「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(入道前太政大臣)。作者藤原公径(1171-1244)西園寺家の租.従一位太政大臣。承久乱後権勢並ぶ者なく栄華を極めた。「この人にこの感慨がという感」があったらしい。公経の姉は藤原定家の妻、定家は「新勅撰集」に公経の歌30首を選んでいる。 ともかく「ふりゆくものはわが身なりけり」という気持ちはよくわかる。今冬は雪が深いかもしれない。

(柳 路夫)