銀座一丁目新聞

花ある風景(617)

並木 徹

振武台を久しぶりに訪ねる

友人西村博君に誘われて埼玉県朝霞の自衛隊駐屯地を訪れた。(12月9日)。ここは戦前陸軍予科士官学校があったところ(昭和16年10月から昭和20年8月まで)。期で言えば陸士57期生から61期生までの生徒1万9千余人がこの地で勉学と訓練にいそしんだ。58期生と59期生は在校中の昭和18年12月9日、昭和天皇の行幸を仰ぎ『振武台』の名称を賜った。この日はそのお祝いの会が開かれた。集まったのは志摩篤偕行会長(防大1期)ら自衛隊関係者を含めて33名であった。

私自身は軍人の道を敗戦により絶たれたが青春時代の1年半をここ振武台で過ごしたのは己の人格形成に少なからずの影響を与えたと思っている。死を覚悟して同期生と切磋琢磨した日々は忘れがたい。昭和天皇を咫尺の間に拝謁した感激は当時の日記がすべて敗戦時、焼却されてしまったので具体的には思い出せないが「その感激、筆舌に尽くし難き」と記したのは確かである。会が開かれた広報センターで「昭和天皇の陸軍予科士官学校行幸のニュース映画を拝見して当時を思い起こした。その朝、同期生と浴場で水をかぶって体を清め、清潔な下着と取り換え御親閲に臨んだ。後にレイテ戦死された校長牧野四郎中将(陸士26期)がこの時、私たちに2首の和歌を贈った。

「居並ぶは 神の子なり 富士も映えて
今日の御幸を 迎えんとするか」

「打ちふるふ 声励まして 大御前に
無敵のつはもの つくると奉す」 

12月ごろに兵科希望調査があった。私は第一志望「輜重」第二志望「歩兵」第三志望「航空」と出した。福田一区隊長(陸士51期)ら呼び出しがあった。「何故に輜重を希望するのか」「大東亜戦争は補給戦であります。一人ぐらい私のような優秀な男が輜重に行ってもよいではありませんか」「バカなことを言うな。お前の成績がいいのは歴史と中国語だけだ。書き直せ」仕方なく「航空」「歩兵」「輜重」の順序で提出した。結果は「歩兵」であった。私の区隊から「航空へは21名が行った。3千名の同期生のうち実に1600名が航空へ進んだ。時代はまさに「航空決戦」であった。

福田区隊長にはさらに思い出がある。昭和18年10月31日(日曜日)。日曜外出で目黒に住んでおられた保証人の河村幸村さん宅に出かけた。着いた途端、河村さんが「これから中野正剛の葬式に出かける.君も一緒に来なさい」と言う。中野正剛はこの一月元旦の朝日新聞に書いた「戦時宰相論」で時の首相・東条英機大将(陸士17期・息子の敏夫君は同期生であった)に忌避されていた。10月21日、軍事上の造言蜚語の容疑で捕まり、26日釈放されたが、思うところあって27日夜半12時、自決された。大連では中野正剛が総裁を務める大連振東学舎で4年間お世話になった。中学2年生の時、寄宿舎で直接話も聞いている。覚悟を決めて青山斎場に出かけた。会場周辺には憲兵がたくさんいた。緒方竹虎が葬儀委員長であった。帰校して区隊長のもとに「自己報告に行った。大連振東学舎を創立した金子雪斎の事、雪斎が説く国家社会主義とは何かなどいろいろ聞かれた。だがその後、区隊長の私に接する態度は温容そのものであった。

全員で「振武台碑」の前で記念撮影をした後、駐屯地のクラブで会食した。その際、来賓の東部方面総監森山尚直陸将(防大26期)が挨拶「戦って勝つ強い自衛隊員を作ります」と力強く述べられた。自衛隊も発足して60余年、立派な武人が育ってきたようである。予科入校時、牧野校長の訓示は「武士的情誼を涵養し花も実もあり、血も涙もある武人たらんことを期すべし」であった。自衛隊の将官・指揮官もこれからその統率ぶりを試される時期が来たようである。