銀座一丁目新聞

花ある風景(610)

並木 徹

藤田嗣治展を見る

「生誕130年記念 藤田嗣治展―東と西を結ぶ絵画―」を見る(10月4日・府中市美術館)展示された作品は158点。目についたのが「アッツ島玉砕」(1943年作・布・油彩)。戦いが日に日に我に不利となったアッツ島で日本軍守備隊が上陸してきた米軍陣地へ最後の突貫攻撃をかける図。銃剣をかざして突撃する兵の傍らに倒れた兵士の姿が累々と描かれる。凄惨・残酷・無残・・・昭和18年国民総力決戦美術展にこの画が展示されると母親たちが手を合わせて拝んだ。嗣治はこの画を「黙祷」と名付けたかったという。

アッツ島はアリューシャン列島最西端の島。東西65キロ、南北35キロ。昭和17年10月末、日本軍はこの島を占領した。守備隊は山崎保代大佐(陸士25期)以下2千5百名。昭和18年5月12日、米軍は奪還のため上陸してきた。兵員1万1千名、護衛艦隊は戦艦3隻、小型空母1隻、駆逐艦12隻、水上機母艦2隻、掃海艇5隻、重・軽巡洋艦6隻、駆逐艦9隻合計48隻。最期の時が来た。5月29日、残存兵力150名、無線電信機を破壊、暗号書焼却。突撃してくる日本軍に敵の砲火が集中した。大東亜戦争の玉砕の第一号であった。それが藤田嗣治の絵となった。嗣治の父は軍医総監。兄嫁は児玉源太郎大将の4女。戦時中、シンガポールや南方に派遣されて戦争記録画を多数制作する。嗣治、時に57歳であった。

5月30日の朝、参謀総長が拝謁上奏した。昭和天皇は「最後までよくやった。このことを伝えよ」と仰せになった。参謀総長は「無線機は破壊されております」と申し上げたが陛下は「それでもようから電報を出してやれ」とおっしゃった。

展示された裸婦画8点。乳白色の下地に細い輪郭線を用いた裸婦を描いたもの。1813年(大正2年)、27歳の時からパリに赴きピカソ、リベラ、キスリングなどエコール・ド・パリの画家たちと交わり絵の勉強をする。パリに滞在すること20年。この間、出品した6点の作品がすべてサロン・ドートンヌ展に入選する(大正8年33歳)。大正10年には同展審査員となる。同15年には「友情」ガフランス政府買い上げとなり、エコール・ド・パリの代表的な画家の一人となった。

終戦は疎開先の神奈川県小淵村で迎えるが戦後、美術界の戦争責任追求の槍玉にあげられ、堪えかねて日本を脱出する(昭和25年)。昭和30年には妻君代さんともどもフランス国籍を取得、日本国籍を放棄した。昭和25年以降の作品は40点が展示されている。鉛筆書きである。題材は少女、少年、聖母子の肖像画多い。昭和43年1月29日チューリッヒで死去、享年81歳であった。 死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年(昭和41年)9月28日」がある。昭和11年に結ばれた夫人とは30年にわたる夫婦生活であった。嗣治のよき理解者であった。