銀座一丁目新聞

追悼録(610)

秋深き隣は何をする人ぞ

早や10月。もの思う秋である。来し方を振り返れば悔いばかり残る。今年は遺書も書いた。芭蕉の「この道や行人なしに秋の暮れ」は人生を達観している。

松尾芭蕉は元禄7年10月12日(陰暦)に大阪御堂筋の花屋仁左衛門邸でなくなった。享年51歳。辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。今から322年も前の事である。暉峻康隆さんは「枯野」を芭蕉が風狂の世界を展開した『冬の日』以来、追い続けた「寂びの美」の象徴と指摘する。弟子の支考を枕元に呼んで「最後の最後まで俳諧に、枯野の美に執する自分の業」を悔やんだと伝えられる。

死を目前にした時、人間の生き様はどのように表れるのか、もう少し見てみよう。芭蕉は死ぬ15日前の9月26日、大阪天王寺の新清水寺に門人たちと遊び、そこの料亭で二句を作る。

「人声やこの道かへる秋の暮れ」
「この道や行人なしに秋の暮れ」

同じ日に別の句を得る

「此秋は何で年よる雲に鳥」

29日には次の句を得た

「秋深き隣は何をする人ぞ」

この時、芭蕉は門人之道の経営する大阪道修町の薬種問屋「伏見屋」に滞在中であった。芭蕉は離れで寝起きしていた.之道の家は奥行が長く、離れは一番奥にあった。路地を隔てた反対側は棟割りの長屋であった。眠れず床に横たわる芭蕉の耳にシュッツ、シュッツかしかにヤスリを使う音が聞こえる。何か手細工をしている音である。鋲を打つ音もする。芭蕉は目を閉じた。思いは細工師理兵衛から亡くなった愛人壽貞こと、江戸の弟子たちの事へ走馬灯のように流れてゆく(荻原井泉水著「小説芭蕉日記」より)。いづれにしても孤独寂寥感が漂う。

かって芭蕉を描いたお芝居「芭蕉通夜船」(こまつ座・2012年8月23日・紀伊国屋サザンシアター)を見た。その時、感想を綴った。―漂泊の詩人は1689年・元禄2年3月22日「奥の細道」の旅に出る。時に46歳。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす・・・』なるほど芭蕉は舟の上に生涯を浮かべていた。通夜舟が出てくるのも不思議ではない。旅中吟の初めは「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」に芭蕉は苦吟する。「しみこむ」か「しみいる」か・・・。ここは山形領の立石寺。慈覚大師が開基したところ。岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず崖をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し佳景寂寞として心すみ行くのみ覚ゆと「奥の細道」にある。“しみいる”とは「蝉の声と一つになって芭蕉の心は、岩を貫き地球の奥深く浸透してゆく」と東大教授小森陽一は解説する。凡人にはこの「しみいる」の表現は出てこない。えらいものだと感心してつくづくと三津五郎の顔を見た―

「行きかう年もまた旅人」か。私は枯野を駆け巡らず山手線をめぐり乗客の人間模様を見てみたい。

「如月に珈琲味合う駅舎かな」悠々

(柳 路夫)