銀座一丁目新聞

茶説

加藤周一 その青春と戦争

 牧念人 悠々

ETV特集「加藤周一 その青春と戦争」を見る(8月13日午後11時から59分)。内容は1937年(昭和12年)から1942年(昭和17年)に書かれた加藤周一の8冊の「ノート」の紹介だ。年齢で言えば17歳から22歳まで。学年で言えば中学5年・一高・東大医学部学生ある。原稿枚数で2000枚に及ぶ「ノート」に読書感想、日記,創作(小説、詩歌)評論などを綴る。

17歳か18歳の頃次の4行を記す。
「若い菊池寛は芥川龍之介に似ている
老いた菊池寛は豚に似ている
勿論豚は芥川龍之介よりも肥えている
そして自殺する心配はない」

加藤は芥川に心酔、「侏儒の言葉」(昭和2年出版)に感銘する。菊池は23歳で一高に入る(明治43年。)芥川(19歳)とは同級生。京都帝大英文科を出る。芥川は東京帝大英文科を卒業する。二人とも文学雑誌『新思潮』の仲間である。芥川は昭和2年7月24日薬を飲んで自殺する。享年36歳であった。菊池は61歳まで生きながらえ、昭和23年1月2日狭心症で死去。事前に残した遺書には「させる才分失くして、文名をなし、一生を大過なく暮らしました多幸だったと思います」とあった。19歳の時にこのような皮肉溢れた文章を書く加藤には感心するほかない。私は中学時代に菊池の『恩讐の彼方に』(大正8年1月・中央公論)、『第二の接吻』(大正14年12月・改造社)、芥川の『河童』(昭和2年2月)や『蜘蛛の糸』((大正7年4月)などを読んだ記憶がある。それでも加藤周一のような感想などついぞ持たなかった。ただ読んだというに過ぎない。

1941年(昭和16年)12月8日の日記には次のようにある。「とうとうわが国で戦争が始まった」(ENFIN LA QUERRE,ENFINCHEZ NOUS)「誰が始めたのだ?どうしてだ?」(QUI A FAIT?ET POURQUOI?)。戦争を始めたことの怒りをぶつけている。時に加藤は22歳。教室で教授は戦時下の「医学生の覚悟」を促す。助教授はこのような状況の中で勉強するのは「男児の本懐」と述べる。

この時、私は大連に居た。中学校4年生であった。軍国少年であった私は陸軍士官学校の受験勉強に懸命であった。戦争に疑問を持たない「体制順応型」であった。加藤は綴る。「ニュースというものは、いかに重大な、いかに痛切なニュースであろうと、所詮弾丸でもないし,飢えでもない。僕らが必要とする覚悟は弾丸に対するものであろう。或ひは飢えに対するものであろう」加藤さんをよく知るジャーナリスト鷲巣力さんは「加藤さんは弾丸や飢えが襲ってくることを予想している。しかもそれだけでなく、弾丸の恐れや飢えの恐れが自分自身を変えてしまうかもしれないことを恐れていた。12月8日に、そんなことを考えていた日本人はどれだけいたでしょう」と解説する。強いれあげれば永井荷風などは時勢に対して超越的傍観者であった。当時62歳の荷風は「寸毫も憚り恐るることなく」書き残しておこうと覚悟を新たにして『浮沈』『勲章』「踊り子』『来訪者』『問わず語り』などを戦時下にひそかに書き続けた。また荷風は文学報国会や文学者たちの会合に拒否の態度を貫いた。

テレビには立命館大学の教授でもある鷲巣さんと学生たちのこのノートをめぐるやり取りが出て来るが学生たちの感想はそれなりにしっかりしていた。この年で加藤周一を知るのは幸せなことだ。

加藤さんの「知の世界」を支えているのは「知的好奇心」と「人間を大事にする倫理」であるという。加藤さんから「日本の新聞はもっと世界のニュースを載せるべきだ」と苦言を聞いたことがある。ネットに押されて読者を失っている新聞は今こそこの意見を聞くべきだと思う。加藤さんは常に弱者の立場に立って発言し戦争に反対した。それだけでなく戦争につながる可能性に反対した。戦争は人間の生命、財産、人間が作り出す価値をすべて否定するものだからである。いい特集であった。大いに知的刺激を受けた。90歳過ぎて「好奇心」が相当薄れてきたのだ。加藤さんがなくなって7年余。今なお教えられるところが多い。