銀座一丁目新聞

安全地帯(509)

湘南 次郎

湘南の某分譲地

老生、相模湾に面し、江の島も近く海岸に出れば富士山を一望に湘南の海がひらけまことに風光明媚なところで、南斜面の約15万坪、一戸建て約1,300戸、人口4,500人ほどの比較的大きい分譲地に住んでいる。海水の温まる8月までは、半分水を撒いたようなものだから、東京とは3.4度違い、クーラーに代わる涼しい風が入ってくる。冬も海水温が冷える1月までは温暖だ。拙宅は標高35m、津波の心配なし。そこまでは結構な話だが、実は、某電鉄会社が昭和40年になってから市の郊外の山谷を大規模造成してしたところで、山坂が多い。高齢者にはこたえる。当時の平均寿命は70才そこそこ、こんなに生きるとは思はなかった。売り出し当時はバブルの最中で、アルバイトを頼み、1週間ぐらい並んでもらって元気のいい連中が奪うように購入したのであった。それから50年近く、一斉に高齢となり、便利な都会へ逆戻り。一時は淋しくなり歯のぬけたようになった。幸い拙宅は娘夫婦の家族が横浜から引っ越して来て二所帯住宅になったので助かった。からくも江ノ電が通っているが駅まで相当遠い家もあり、スーパー、酒屋が一軒ずつ、買い物はほとんど4、5㌔あるJRの駅近くまで行くのでみな車を持たざるを得なかった。通学、通勤時の送迎には江ノ電の時刻が始発は遅く、終電は早いので、JR駅まで家族も協力した。いまは、江ノ電の時刻も改正され、駅まで循環バス、消防派出所まであり、スーパーも整備され、便利になったが、ぜいたくを言えば山坂だけはいかんともしがたい。

建築後数年でシロアリにやられたが、消毒屋いわく「シロアリの方が昔から住んでいるんだ」これには、参った。当時はリスも多かった。余りかわいくない台湾リスで鼠色、しっぽがうえにあがってない。鳴き声は「ギャ、ギャ」品がない。電線をかじるような悪さをする。このごろはハクビシンやタヌキにやられ、へってきた。数年前までは、早朝散歩で、野鳥やリスの鳴き声を聞きながら、市の指定緑地で全く自然の残った裏山を約2㌔越えて、ファミレスで朝飯を食べるのを日課としていたが、最近は早朝、人のいない山道でぶっ倒れたらと家族に止められ、加齢とともに足腰も弱り、今はなるべく平らな分譲地内の道をさがし、動物園のシロクマのようにぐるぐる回っている。もっとも夏はその裏山はヘビの名所なので敬遠していた。数年まえ某タレントがその一角に豪邸を造った。知らぬが仏、土地の古老いわく、あすこはマムシ谷と言い噛まれたひとがいたそうだ。とにかく、温湿の地11月3日文化の日までは油断できない。青大将、シマヘビ、マムシ、ヤマカガシ大小なんでも対面できる。

最近相続の関係か、建築協定で100坪以上の土地ならば2分割できるので売りが出、買いやすくなったのか若い家庭が増え、一時期の寂しさはなくなりだいぶ子供が増えて来た。拙宅の前が通学路なので登下校時はにぎやかだ。高齢者はあの声がうれしい。ジャンケンで荷物の持ち合いをしながら騒いで坂道を登っていく。そして拙宅の角には登校時はこの分譲地駐在のお巡りさんが立っていて小学生の横断を見守っている。このお巡りさんが熱心で明るい方で評判がいい。住民と仲良くなってよく声をかけている。○時○分パトロールしましたと一筆書きのカードをポストに入れてくれるのは心強い。人気があって家内などもフアンだ。

サークル活動も盛んで老若男女、コーラス、ヨガ、太極拳、フラダンス、写経、料理、バードゴルフ、テニス(コート2面あり)、ゴルフ、囲碁、将棋等々。時期になると中心を通る遊歩道でライトアップの桜まつり、夏まつりと盆踊り、ハローインの仮装行列が行われ、和太鼓、餅つき、縁日、舞台では、高校のブラスバンド、フラダンスなど、と住民参加で大いに賑わう。参加する若い人がふえて頼もしい。

この分譲地には旧跡がある。鎌倉時代、干天で住民が困っていたとき、日蓮がライバル極楽寺の忍性(にんしょう)と雨乞いの対決をし、日蓮がみごと雨を降らせたという場所「日蓮雨乞いの池」が現存する。今はひらけてしまったがかつては幽すいな池であった。分譲地へ国道134号線から入る入口の小川を「行合川」という。これは鎌倉幕府に日蓮が邪教の布教と迫害を受け、江の島対岸、腰越龍口寺門前の龍ノ口刑場で斬首されるとき、突如、落雷で刑の執行を断念する報告を幕府に知らせる使者と、事情で幕府からの赦免の使者が、ばったり行き合ったところがここ現在の「行合川交差点」であった。また、分譲地の最北端に正福寺公園という大きな石が7,8個、芝の中に置かれている500坪ばかりの公園がある。ここはかつてあった熊野権現社に併設した「正福寺(しょうふくじ)」のあったところで、大きな石はその仏殿の礎石の一部だ。裏山から那智滝という瀧が流れ落ちていたそうで、五代執権北条時頼がわが子正寿丸(のちの時宗)、福寿丸(のちの宗政)兄弟の名をとり息災延命のため造営した大寺院であったことが鎌倉時代の正史吾妻鏡の建長6年(1254)4月18日の項に出てくる。また、鎌倉幕府滅亡時新田義貞が、攻めあぐね、ついに稲村ケ崎を渡渉し、市内に突入した、その本陣をかまえたところがここであったと太平記にある。

先祖代々住み慣れた東京から移住して40年、都知事の選挙も他人ごとになり、天変地異さえなければ空気もよし、気候もよし、心がけ次第では本誌主幹の牧氏の目標120才まで生きるのは無理としても、かれの元気旺盛な執筆の後塵を拝し、ここに来て老生の東京にいた時の人生のプログラムが若干のびたのは間違いない。


分譲地内の洋館

正福寺公園

パトロールカード

分譲地の入口の坂

分譲地内のレストラン

裏山の広町緑地