銀座一丁目新聞

追悼録(603)

社会部同人井草隆雄君を偲ぶ

毎日新聞社会部で一緒に仕事をした井草隆雄君が亡くなった(6月6日享年84歳)。毎日新聞の同人らによるお別れの会が8月5日開かれる(東京・千代田区・日本交通協会大会議室)。私が社会部長の時の部下で、東京新聞から毎日に移籍した変わり種であった(昭和42年10月入社)。群馬県前橋市出身。東京外国語大学イタリア語科を卒業、イタリア語と英語が堪能であった。私はその語学を一度も聞く機会がなかった。同僚たちの話によると、常に容姿に気を使い、髪は一本の乱れもなく、スーツ、シューズはブランド物。品のよい眼鏡を掛けながら、しゃべる言葉は上州なまりのべらんめえ調であったという。私とは一度も持御手合わせをしなかったがポーカーフェイスで麻雀も強かったようだ。彼と最後に会ったのは平成27年7月22日の「根上磐さんを偲ぶ会」であった。その時は前橋支局時代の根上さんと奥さんとのなれそめを熱心に話してくれた。

航空記者として活躍したと聞いて思い出した。ロッキドー事件のさなか事件の渦中にある全日空から友人のために割安の航空券を入手しようとしているのを聞いて井草君をしかりつけたことがあった。その後、警視庁キャップ、社会部デスク、千葉、横浜両支局長、写真部長、地方部長、編集局次長の要職を歴任したと言うから新聞記者としての才能に抜群のものを持っていたのであろう。 退職後は、京葉ガスの広報紙ニューファミリー新聞社の副社長を務めるなど、地元千葉県のマスコミ界で活躍、講演や執筆活動で余生を楽しんでいたという。

自慢は「パルコって、オレが命名したこと」。よくその自慢していた。池袋の丸物の跡地にファッションビルパルコ1号店がオープンしたのは昭和44年(1969年)。パルコはイタリア語で「公園」の意味だが、その後、渋谷をはじめ全国にパルコが誕生。若者のファッション・生き方に強い影響を与え、「パルコ文化」という言葉も生まれた。

沢畠毅君の追悼録によれば、井草君が千葉支局長時代の支局メンバーで年に何度か「千葉井草会」を開き、千葉県新浦安のホテルで食事をしながら、思い出話や近況を語り合ってきた。今年の4月2日、冨田淳一郎君が福岡から上京したのを機に会を開いている。私は支局長を一度も経験していないのでこのような話を聞くと羨ましい。支局長になる話はあった。昭和41年8月『サンデー毎日』のデスクから岐阜支局長へ出る内示まで受けたのが取りやめになって社会部のデスクになった。これには裏話があって当時に編集局の幹部が「あの男は独断と偏見の持ち主で、協調性がないから支局長は務まらない」と反対して東京でなく、やむなく名古屋本社が引き受けてくれて岐阜支局に行くことになっていたと後で聞いた。井草君は昨年11月から胆管を患い入退院を繰り返していた。「這ってでも行く」と言っていたのに、当日は姿を見せなかったという。心残りであったであろうと思う。心からご冥府をお祈りする。

(柳 路夫)