銀座一丁目新聞

茶説

未来は過去の罪の反省によって築かれる

 牧念人 悠々

江成常夫の写真集『多摩川1970-74』(平凡社・2016年6月22日刊)の本の帯には大阪万博(1970年2月14日から9月14日)に浮かれ札幌五輪(1972年2月3日から2月13日)に熱狂していたころ首都の川は死に瀕していたーとある。多摩川は秩父山地の笠取山に発し秋川・日原川丹波川などの支流を一つにして東京都・神奈川県を流れる。全長138㎞。流域面積は1,240km²に及ぶ。私はその左岸にある府中市に1955年(昭和30年)1月から現在まで60年間も住んでいる。この本の納められた写真103葉を見て当時の汚染のひどさに愕然とする。そのころ多摩川の汚染は話題になり、鮎が取れなくなったという話も聞いた。実は1960年頃にはすでに多摩川が汚れ出している。その原因は、流域の人口の急増にある。上流からあげれば、奥多摩町・青梅市・羽村市・あきる野市・福生市・昭島市・立川市。八王子市・日野市・多摩市・稲城市・調布市・狛江市・東京都世田谷区・川崎市高津区・同市川崎区・東京都大田区と続く。空地は言うに及ばず農地は宅地に転用され、川沿いの丘陵地帯が造成されて多くの住宅地ができ人間の暮らしが始まる。写真集57ページ「羽村市羽 1972」。セメントに必要な砂利採取の現場である。砂利運搬のトラックが10台。数か所の砂利の山が写る。写真集64ページ「川崎市等々力 1972」。河川敷にできたゴルフ練習場には40人を超えるゴルフアーたちが練習をしている。バンカーの練習場もある。多摩川の向こう側には真新しい高層マンションが3つ立つ。この時代を象徴する。確かに考えれば写真にはそれなりの「ストーリー」がある。田中角栄通産相が日本列島改造論を発表したのが1972年6月11日であった。家庭から出る洗濯機や合成洗剤を含んだ家庭排水の汚れがますますひどくなり、しかもその量も増えた。この家庭排水が多摩川を汚した。第1ページ「檜原村 秋川 1973」の写真はまさに「堰堤を滑り落ちる汚水から妖魔のような泡がわきあがり、風によって舞い上がる」図である。他にもこれに似た写真が幾つもある。ここに自然ととも生きることを考えずに人間の利便性と効率性を追求した我々の醜い姿を見る。多摩川の水を使って東京都民の水道水を作っていた浄水場も1970年以降、使われなくなった。多摩川では、コイやフナなど汚れに強い魚をのぞいて、多くの生き物が姿を消す。高度成長時代には強者が急発展するのが世の習い・・・

28ページ「青梅市梅郷 1972」には大写しの梅の花にほっとする。だがこの梅は今やない。パソコンで調べると、2009年4月に、「プラムポックスウイルス」の感染が梅の木としては世界で初めて確認されたという。これは家庭排水で汚染された多摩川と関係ないのかと疑問がわいた。梅郷は多摩川の畔にある。風に舞いあがった泡が川よりの梅の木に取りつく。1972年から37年経て梅の木に取りつた妖魔が次第に大きくなり病害になったとは言えまいか・・・・。世界には「ウイルス」と「ファイトプラズマ」が今の農薬では絶対に防げない病原体である。この二つの培養に成功すれば防除薬剤の開発も出来る。まだその培養に成功していない。やむを得ず、2014年5月30日までの間に園内の梅1,266本が全て伐採された。今後、3年間に付近で新たな感染がなければ梅を植樹できるという。

「東風吹かば昔を偲べ梅の花咲きし故郷忘るる勿れ」(詠み人知らず)

「春されば先つ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」(山上憶良)

後書きによれば「ラブリバー多摩川を愛する会」の代表西尾安裕さんは書店で手にした「毎日グラフ」(1973年1月21日号)の江成常夫の「多摩川の“清”と“濁”」の写真を見て衝撃を受け、江成常夫と知己を得たという。多摩川の清掃活動と河原での楽しい行事とセットしたラブリバー運動を始めること40年。近年やっと多摩川に鮎が遡上、河原にうずたかく積まれたゴミの山も見えなくなった。この写真集は死の川と化していた時代の記憶を蘇らすものである。人間は嫌な記憶を忘れがちである。江成常夫があえて世に問うのは「過去の記憶が未来の人間と自然との共生を占う上のよすがになれば…」と言う思いからである。未来は過去の罪の反省によって築かれる。とすればこの写真集は「歴史の証言者」と言うべき本である。