銀座一丁目新聞

茶説

映画『殿 利息でござる』の意味するもの

 牧念人 悠々

原作・磯田道史・監督・中村義洋の映画「殿 利息でござる」を見る(5月17日・府中)。お上に金を貸し付けて利息を取り、町を救うという発想もさりながら自分を捨てて住民のために働く「滅私互助」の精神に敬服する。「無私互助」と言い換えても良い。お上に立ち向かったのは、造り酒屋・穀田屋十三郎,茶師・菅原屋篤平治、大肝煎・千坂仲内、肝煎・遠藤幾右衛門、味噌屋穀田屋十兵衛、雑穀屋早坂屋新四郎、小間物屋穀田善八、両替屋遠藤壽内、造り酒屋浅野屋甚内の9人。もっとも町を考えていたのは先代浅野屋甚内であった。人知れずに小金を貯金してお上に上納していつか町を救う行動を死ぬまで続けた。煮売り屋の美人ときさんも活躍する。平八ら5人の殿馬人足も得難い存在感を示す。この伝馬役こそ彼が住む吉岡宿(現在の宮城県黒川郡吉岡の上街・中町・下町。全長1.2km・人口200軒)を苦しめている元凶であった。お上の物資を隣の宿場から受け取り次の宿場までは運ぶのが伝馬役である。宿場の自腹であったため重い課税に堪えかねて夜逃げする住民が後を絶たなかった。そこで宿場を救おうと苦吟する十三郎と知恵者・篤平治が考え出したのが1000両(今のカネに換算して3億円)を仙台の殿さまに貸してその利息100両(3000万円)をいただこうという「貧乏救出大作戦」。しかも出資者は利息を受け取らず利息は住民全員が受け取る仕組みであった。まさに「無私」である。登場人物はそれぞれに泣かせるセリフを吐く。十三郎と篤平治から最初に秘事を打ち明けられた大肝煎・千坂仲内はいう。「私のところにこっそり頼みごとに来る人はみんな自分の利益のためです。ところがあなたがたは吉岡宿で暮らしがが立ち行かぬ者たちを何とかしたという話です。こんな善事がありましょうか」と。村政の実務を担当する大肝煎の参加で作戦に弾みがつく。しかも「つつしみの掟」を作る。「1、喧嘩,口論をつつしむ 1、この度の嘆願について、口外することをつつしむ 1、神社仏閣等へ寄進いたし折もその名を出すことをつつしむ 1、往来を歩く際は礼を失することにならぬようこれをつつしむ 1,振る舞いなどの寄合では上座に座らず末席にてつつしむ」。この謙虚さが清々しい。

全員私財をなげうつなど数年かけ1000両を集める。十三郎の実家浅野屋は1500貫文を出し上さらに出入司(仙台藩の財政担当者)萱場杢の「銭でなく金で納めよ」の難題で追加800貫文(4800万円)が必要になった時さらに500貫文を出す。「吉岡宿が立ち行くようにお金を使え」と言う先代甚内の遺言を貫く。十三郎・篤平治が心配していたように浅野屋は開店休業、倒産寸前となった。

彼らの秘策が一度却下されたが最後に受け付けられたのは仙台藩の代官橋本権右衛門のおかげであった。橋本代官は再度陳情に来た千坂大肝煎からこの度の案が何年も前から先代甚内が考えていたことだと聞かされたからである。仙台藩では吉岡宿の願いはお金のない藩の内情に付け込んで高利貸しをしようとする、けしからんやつらだと受け取られていたのだ。

財政担当者の菅場杢は奇特なこの九人に会いたくなった。一番会いたかった甚内は足を患ってこられず息子の周右衛門が来た。「乗り物を使えばよいではないか」というと、「人は万物の霊長であるから、牛馬を苦しめ、その背中に乗るようなかわいそうなことはしてはならぬ。駕籠のように、人間が人間を苦しめ、肩に担がれるようなことはあってはならない。歩けるうち、馬に乗れるうちは、同じ人間の肩を苦しめ駕籠に乗るようなことは、絶対にしてはならぬ」と先代甚内からの教えである。この思想の根幹は「人間は尊きものであり、人間はほかの尊い人間を苦しめてはならい」である。武士社会の否定である。原作者は萱場杢の心境を「この恐るべき思想的結論に戦慄した。どうしようもない空しさが彼の全身を駆け抜けた」と表現する。仙台藩から賞金が与えられた。周右衛門が3両3分、他の8名が2両2分であった。この賞金も宿場の者たち全員に配られた。彼らの「滅私」は徹底している。このお蔭で吉岡宿は潤い、幕末に至るまで人口は減ることがなかった。

前代未聞の事が起きる。62万石の仙台藩主伊達重村(扮するはスケート選手の羽生結弦)が領内巡視の途上、浅野屋にお成りになった。自ら筆を執り「霜夜」「寒月」「春風」と書き「これをもって酒銘とせよ」と言い残して去る。これらの銘酒は「殿さまが名付け親」と評判を呼び、酒が飛ぶように売れ、浅野屋は立ち直った。この物語が後世に残ったのは龍泉寺栄州瑞芝和尚のおかげである。メモは残すべきものであるという教訓である。

安倍政権は「地方創生」と声高に叫ぶが、成功の秘訣は住民たちの知恵を生かした「無私互助」にあるといっても過言ではない。

(注・ウィキペディヤによると「庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。身分は百姓。庄屋は主に西日本での呼称で、東日本では名主、東北・北陸地方では肝煎と呼んだ」