銀座一丁目新聞

安全地帯(501)

信濃 太郎

蛭川幸雄さんを偲びつつ演劇の行く末を思う。

亡くなった蛭川幸雄さん(5月12日死去・享年80歳)が優れたユニーク演出家であった。井上ひさし原作の「ムサシ」を演出した蛭川幸雄が鮮烈な印象として残っている(平成10年5月25日・さいたま芸術劇場)。この作品は井上ひさしが蛭川幸雄のために書き下ろした。テーマは「恨みの鎖を絶ち切る」。今日的課題だ。蛭川幸雄が演出した井上ひさしの「藪原検校」も見た。この二人は同年代(井上昭和9年・蛭川昭和10年)で、ともに新劇畑の出身。二人とも新劇界の中心から外れた地点から登場して現代演劇の世界に大きな変革をもたらした(演劇評論家扇田昭彦)。扇田さんは「政治の世界でも文化・芸術の領域でも過激な変革をもたらす新しい才能はたいてい古い中心部からでなく周辺部分から登場する」と指摘する。この二人が居なくなったこれからの演劇界の行く末が気掛かりである。

二人を偲びつつ話を「ムサシ」の舞台に移す。主役は藤原竜也の宮本武蔵。藤原は15歳の時、舞台「身毒丸」オーディションで応募5000人から蛭川さんが見染めた愛弟子だ。「アジアの小さな島国のちっちゃい俳優になるな」と教えられた。佐々木小次郎は勝地涼が務める。舞台は巌流島決闘後日物語として展開する。夢幻の世界は井上ひさし演劇の絶骨頂である。幕開けは両者の決闘のシーン。船の中で櫂を削った木刀で小次郎を倒したあと武蔵は小次郎にまだ息が残っているのを知って立ち会いの細川家武士に手当てを頼んで去る。生き返った小次郎が恨みを晴らすため旅に出て苦心の末、決闘から6年後(元和4年=1618年=の夏)、鎌倉は佐助ヶ谷,源氏山宝連寺で武蔵を見つけ再度決闘を申し込む。井上さんの創作年表には武蔵について「勝つことがすべて」「戦略家になろうとした」「刀がすべてではない」「日常のあらゆる瞬間に危機を想定する」などと記されている。

宝連寺では寺開きの参籠禅が行われようとしていた。導師・大徳寺の沢庵宗彭(六平直政)、徳川家指南役・柳生宗矩(吉田鋼太郎)、寺の大檀那・木屋まい(白石加代子)と筆屋乙女(鈴木杏)、武蔵は寺の作事をつとめる。そこへ小次郎が出現する。今度こそは「五分と五分」の勝負をつけようという。再対決は「三日後の朝」と決められた。まいと乙女は親を無頼者に殺されたので仇討をしたいというので剣術を小次郎から教わる。そこへ無頼者の一味・浅川甚平衛(飯田邦博)、その弟・浅川官兵衛(堀文明)、師範代・只野有善(井面猛志)が寺に現れる。「今返り討ちにしてくれる」と言う浅川らをまい、乙女。その下男・忠助(塚本幸男)たちがかろうじて無念無想の一刀で打ち果たす。ここで乙女は悟る。「恨みの鎖を断ち切る」ということである。そうでないと恨みはいつまでも残ってゆく。そこで沢庵和尚らが武蔵と小次郎の対決を止めさせようとして、お互いの足を縛る二人三脚をしたり、五人のお互いの足を縛る5人6脚にしたりして気持ちを和ませるよう努力する。

この舞台に出てくる柳生宗矩は能狂いで新作「孝行狸」を謡う。カチカチ山の子狸は親を泥船で海へ沈められたが相手のウサギを恨まずに生きるという内容。井上さんらしい発想である。もちろん武蔵と小次郎の対決もなくなった。60余年の生涯を終えた宮本武蔵はその著書「五輪書」で「自分の生涯は『兵法の病』にとりつかれていた」と悔いている。ムサシがなくなってから365年、地域戦争はたえず、テロは各所で頻発する有様である。いつの日に「恨みの連鎖を断つ日」が来るのであろうか。時代は逆行している。