銀座一丁目新聞

追悼録(592)

柴田武さんと日本の方言

毎日新聞に入社した際、先輩からどんな本でもよいから「1週間1冊の本を読め」と教えられた。すぐに役立つわけでなかったがデスクになって出稿されてきた原稿の処理、判断・企画立案に大いに役に立った。最近、黒川伊保子著「日本語はなぜ美しいのか」(集英社新書・2007年5月6日第4刷発行・定価680円+税)を読んではしなくも大阪社会部での出来事を思い出した。ある時、東京本社から誘拐事件の容疑者(別件容疑)が捕まったという原稿が来た。東京では社会面トップで扱うという。誘拐犯人は明らかに東北弁を使用する者であるのことが分かっていた。ところが捕まった容疑者は8歳ごろまで東北に居たがそれ以後関東で生活していることであった。私はこの容疑者は真犯人ではないと判断した。と言うのはその土地を12、13歳前に離れておればその国の方言をほとんど忘れてしまうからである。私は整理部デスクに「これは真犯人ではない。間もなく白くなると思う。大阪は2番手で扱いましょう」と言って扱いを小さくした。

実は言語学者・柴田 武さんの著書「日本の方言」(岩波新書・昭和38年9月10日第5刷発行・定価130円)を読んだばかりであった。柴田説によれば個人の言語的運命は5,6歳から13,4歳までの間何処で育ったかで決まるという。9歳までなら方言を覚えなおすことが出来るが13歳以上では不可能と言う事であった。国立国語研究所の調査でも次のようなことが分かっている。昭和24年当時、福島県白河市へ京浜地方から直接疎開して、まだ白河市に残っていた子供が約5百人あった。この子供たちを調べたところ6,7歳の間に白河市へ来た子供は5,6か年の間に、ほぼ完全に白河方言に同化したのに14歳以上になって疎開してきた子供はほとんど影響を受けなかったという。

ほどなくして容疑者はアリバイが成立して釈放された(のちに真犯人が逮捕された)。私の判断が正しかったわけである。勉強するかしないかの差はこんなところに出てくる。黒川伊保子説によれば「9歳から11歳までの3年間は、感性と論理をつなげ、豊かな発想と戦略を生み出す脳に仕上げていく、いわば子供の脳の完熟期だ」と言い、「12歳になると、完熟した子供の脳はオトナ脳へと変容を遂げる」と説明、柴田説を裏付けている。50年以上も前の出来事である。

柴田 武さんは 方言地理学、社会言語学の権威。国立国語研究所の所長も務められた。『新明解国語辞典』や『類語大辞典』の編纂にも参加。平成19年7月12日死去、享年88歳であった。

(柳 路夫)