銀座一丁目新聞

安全地帯(494)

信濃太郎

「道有れば 故に我あり 寒き春」

いつの頃からか散歩が日課となってしまった。日曜日(3月6日)は休んでも良いだろうと思ったが体が言うことを聞かない。催促する。午後4時過ぎ散歩に出る。歩数4889歩。途中考えた。行動が己の心の表れだとすると、散歩は「己が生きんとするあがきではないか」と。吾ながらひねくれている。各家庭の庭に咲き誇る梅の花は「その場で美しい花をさかせればよい」と教える。「人間が悩んでいることを自然がすべて教えてくれる」といったノーベル授賞者がいた。自然の営みを知り人の様子を見ればそれだけで良いのであろうか。

「銀座展望台」に次のように記した(3月4日)。
『認知症予防のため散歩を心がけている。2つコースがある。いずれも30分かかる。Aコースは府中市新町1丁目周辺巡り。元少年院の周囲をぐるり廻って東八通りを超えて農工大の学園通りを経て帰宅する。3日歩数4109歩。

Bコースは小金井市貫井南1丁目から4丁目・5丁目をめぐる。2日歩数4419歩。いずれにしても5000歩以上にしなければとコースの延長を考えている、それぞれ風景が違う。思いがけぬところにコーヒー店が有ったり主婦のカフエがあったりする。こんなところで儲かるのかなと心配する。今は梅の花盛りである。

「散歩道 我を忘るな 梅の花」悠々』

なおCコースもある。一時はこのコースだけであった。自転車で自宅から10分の府中の森公園に出かけ、公園の入り口に自転車を置き、30分園内を散歩する。
様々な人と出会う。犬の散歩をする人。2匹もつれている人も少なくない。意外に多いのがマラソンの練習する人である。夫婦連れもいる。昨今の年配の主婦はサングラスに大きなマスクをかける。その美しい顔を見せないようにしている。それだけつつしみ深くなったのであろう。私自身もサングラスにマスクをしている。私の場合は老醜を隠すためである。まだ色気があるという事か・・・
散歩するのは哲学すること。自然に学び人に接し己の在り方を問うことだ。

「道有れば 故に我あり 寒き春」