銀座一丁目新聞

安全地帯(491)

相模 太郎

眞田一族

テレビ大河ドラマ「真田丸」では、すでに権謀術策の父昌幸(草刈正雄)など眞田一族が仕えた武田家は信玄亡き後、子息勝頼が信玄の遺志を継ぎ、美濃や遠江に侵入したが、天正3年(1575)5月21日織田・徳川連合軍との長篠の合戦において大敗し多くの武将を失い、それを契機に敗北を重ね、遂に親類縁者までもが背き,故郷甲斐の東部の天目山の田野で北条から嫁いだ夫人、嫡子信勝とともに自刃し、武田家は滅亡した。

眞田信綱は幸村(信繁)の父昌幸の兄で幸村の伯父にあたる。信綱は幸村の祖父の眞田幸隆の嫡男として生まれ、早くから武田信玄につかえた武田24将の一人の猛将であった。父とともに信濃、上野を転戦、永禄11年(1568)弟の昌輝と駿河攻めの先鋒、永禄12年(1569)三増峠では北条軍の追撃に殿(しんがり)軍を務め、元亀3年(1572)の信玄西上作戦には三方が原で徳川家康軍を撃破するなど各地を転戦し戦功をあげた。

しかし、織田・徳川連合軍38,000と対峙した天正3年の長篠(愛知県新城市)の戦いでは武田勝頼軍15,000、(数字は誇張あり)連合軍の馬防、柵に阻まれ加えて手前の連吾川の周辺は泥田が広がる。異説はあるが、馬防柵には有名な鉄砲の3段撃ち、武田は古風な騎馬軍団の襲撃で勝てる訳もなく泥田にはまり惨敗、遂に3分の2もの損害を出し多くの将兵を失った。かつて小生も現地を見聞したが、無理ないくさと誰もが判る地形であり大部分の将兵を無駄死にさせた勝頼の責任は大きい。鉄砲の威力による戦法がそれからの戦国合戦の様相を一変させた契機になったのはご承知の通りであって、近くの長篠城資料館には田んぼから出て来た鉛の鉄砲の丸弾なども展示してある。

その、無謀ともいえるいくさで命を落とした多くの将兵のなかに、共に各地を転戦した真田信綱・弟昌輝がいた。信綱の首は家臣2名が、着用していた陣羽織に包み鎧の胴巻きに入れ、はるばる眞田の里(長野県上田市眞田町)へ運び、信綱の弟昌幸(幸村の父)開基の位牌所として建てた信綱(しんこう)寺へ納めたのであった。かつて参詣した際、ご住職にお願いして資料館に展示されている血染めの陣羽織と鎧を拝見したが、すさまじい戦国時代の様子が目に浮かぶ。「お首はあの桜の根元に埋けたのですよ」と。後日この2名の家臣も主君のあとを追って殉死して忠義の士となった。近くには眞田家発祥の館跡、真田本城址などあり、のどかな山里だ。上信越道上田菅平ICより菅平へスキーやハイキングに行く街道の近くにありドライブの途次お寄りするとよい。

長野市松代町には幸村の兄信之が眞田の里から移した六連銭の寺紋をつけている眞田家累代の菩提寺長国寺がある。信之の霊屋(国重文)を始め信之一族の霊屋がある。霊屋の外部は普通の大きいお堂だが内部は東照宮を思わせる豪華絢爛なのだ。(当時拝観禁止でパンフレットだけ)。また、幸村、大介は供養塔でだいぶ差がある訳はこれからの大河ドラマでのお楽しみだ。ちなみにもう亡くなった陸軍士官学校の同期生に眞田幸知という友がいて眞田幸村系図にも出て来るが、小生の話を聞き実際に尋ねたところ、真田というのはいっぱいいますよと住職に軽くあしらわれたと憤慨していた。もっとも兄信之と弟幸村は最後敵対関係になったからか。松代には多くの信之流一族の史跡が残っており、加えて敗戦で使わなかった太平洋戦争の大本営予定地、佐久間象山、松井須磨子の墓所もあり、川中島古戦場も近い

真田家系図

(参考文献)長野県・山梨県の歴史散歩 山川出版
      眞田三代 新人物往来社


(筆者撮影)


眞田居館跡(上田市眞田町)

信綱血染め陣羽織(信綱寺)

信綱墓右夫人左弟昌輝(信綱寺)

信之一族長国寺(長野県松代町)
棟には六文銭がついている

信之の霊屋 

幸村・大介親子の供養塔