銀座一丁目新聞

花ある風景(585)

相模太郎

蒙古襲来

大相撲初場所日本人力士として10年ぶりに大関琴奨菊が優勝した。成績は14勝1敗。3横綱のモンゴル(蒙古)勢を土にした。彼の不断の努力、稽古精進と取り口の研究、心の準備のたまものだ。まして、あの気迫はものすごい。そこで、日本勢とし久しぶりの3横綱撃破の琴奨菊一弘は1984年1月30日生まれ、32歳。佐渡が嶽部屋、得意は左四つ、がぶり寄りであるが、なんと出身は「福岡県柳川市」。

思えば、1274年文永11年10月5日蒙古(元)・朝鮮(高麗)連合軍26,000人、900艘の大軍が先ず対馬を、15日に壱岐を攻略、20日には博多湾に上陸、激戦となった。武力偵察のためだったらしいが、北九州湾岸一帯は戦法、兵器の異なる強襲によって蹂躙されたが、翌日博多湾から姿を消していた。これは悪天候が原因との説もある。

再度の襲来を警戒した鎌倉幕府時の執権北条時宗は、つねひごろ教えを乞うていた中国宋の高僧で、父時頼の建立した鎌倉建長寺にいた無学祖元禅師(仏光国師)に「莫煩悩」(わずらいなやむなかれ)との書をいただく。禅師も中国宋末期元軍に追われた身であり、師として適任であった。果たせるかな1280年弘安4年5月3日今度は蒙古(元)・高麗(朝鮮)・漢(支那)の連合の東路軍4万人が朝鮮で建造した900艘で来寇し、対馬、壱岐に侵攻、博多湾に上陸するが、再度の来寇を予想して築造した石の防塁、鎌倉武士の必死の防戦と奇襲にはばまれて母船に引き返し、玄界灘を遊よく、閏7月1日、西の鷹島沖で旧南宋主体の江南軍10万人、3,500艘と合流、北九州を狙うが7月30日暴風雨にあい潰滅する。もっとも、永い航海、飲料水、病気の発生と多くの船は征服した国で作らせたもので誠意のこもった軍船ではない。朝鮮などは木材切り出しのため禿山になってしまったのであった。ヤワな船は風雨に持つはずがなかった。

以上が世にいう日本の一大国難、元寇つまり、蒙古襲来であって、後の鎌倉北条氏の間接的滅亡はこの国費の消耗、武士たちに対する恩賞によるものが極めた大であった。しかし、後日、時宗が建立した鎌倉円覚寺こそ敵味方供養の慰霊のためのものであり、「罪を憎んで人を憎まず」日本人の思想の現れであろう。言訳でもなく、けっして当時の歴史的事実を書いているだけで対馬あたりの捕虜の住民の手のひらに穴をあけ紐を通して船で引っ張った(かつて穴あけ具が博多の資料館に展示されていたそうだ)残虐なことなど、はるか昔のこと、余談になるが、どこかの国はトップは変わるたびにかならず日本軍の残虐は未来永劫忘れぬことをスローガンとする。日本人はノーテンキか、鷹揚に歴史の1ページとして考えているが。

ここで奇しくも北九州福岡県出身の力士が蒙古(モンゴル)出身の3横綱を総なめにした快挙だ。沈着冷静の鶴竜、威風堂々の白鵬、猛進速攻の日馬富士、みな真面目な立派な横綱で大好きだ。朝青龍はイタズラッコだったがこれも面白かった。日本人力士も情けないと日ごろ思っていたが勝負の世界、実力が違うのだから仕方がなかった。それがやっと1991年平成3年初場所大関霧島が3横綱を倒してから25年ぶりの快挙を成し遂げた。それにもまして相手はがっちり組んだ不動の蒙古3横綱陣を倒したのだからたいしたものだ。 小生の知る蒙古の人は体格が良く寡黙、朴訥、勤勉、真面目で好感が持てる。ここで「蒙古襲来」の恩讐を出すようなバカな日本人はいないだろうが、北条氏がいた鎌倉在住の小生、蒙古対福岡とは、なにか因縁めいた勝負であった。とにかく若い力士のはだかのぶつかり合いは日ごろのストレスをすっ飛ばす。これからも人種を問わず精進、研鑽され、視聴者を沸かしていただくことを切にお願いする。

(参考文献)
元寇物語 青雲書房 田中政喜著
博多歴史散歩 創元社 白石一郎著
鎌倉北条一族 新人物往来社 奥富敬之著