銀座一丁目新聞

花ある風景(583)

並木 徹

満州新報の記者竹内坦道さんを知りませんか

『銀座一丁目新聞』の読者の一人、立松みつ子さんから昨年11月「満州新報にいた竹内胆道さんを知りませんか」とメールで問い合わせがあった。竹内坦道さんについて次のように書いてあった。 『「小畑詩山」(1794-1875)という江戸時代後期の儒学者・医師(上野寛永寺の輪王寺宮[後の北白川能久親王]の侍読)について調べていたところ、1923年(大正12年)に大連で出版された『前人遺芳』(第二帙)(著者:竹内担道、出版:木魚庵)という和書に小畑詩山の墨跡と逸話が掲載されておりました。小畑詩山の墨跡はほとんど残っておらず、大変貴重に思いました。「前人遺稿」の序文によると、著者の竹内担道氏は、当時、満州新報大連支社の記者をしており、趣味で蒐集した日本人先賢名士の遺墨に小伝を附して満州新報紙上に掲載したものを集め、「前人遺芳」として出版したそうです。

1921年版(第一帙、乾・坤)には、頼山陽、田能村竹田を含む200人、1923年版(第二帙、乾・坤)には勝海舟、坂本竜馬、岸田吟香を含む200人が収録されています。「前人遺芳」の巻頭には、泰東日報、振東学社の金子雪斎の題言、遼東新報の大來修治と満州新報の小川義和の序文が掲載されています。国会図書館デジタルコレクションの『前人遺芳』1921年版(第一帙)がインターネットで閲覧可能です。古書店で「前人遺芳」1923年版(第二帙)を入手し拝読したのですが、異郷の地で新聞記者をしながら、純粋に先人の遺墨を愛し、満州新報紙上に「貧しき家珍の展観」と題して連載し、「前人遺芳」という素晴らしい本を上梓された竹内担道記者が、その後どのような運命を辿られたのか、また、蒐集した墨跡の行方を知りたいと願っております。竹内担道(黙庵)氏について、わかっていることは、1906年頃に大連に渡り、満州新報大連支社の記者として活動し、以下の本を大連・木魚庵から出版したことだけです。

1921年(大正10年)『前人遺芳』(第一帙、乾・坤)
1923年(大正12年)『前人遺芳』(第二帙 乾・坤)
1924年(大正13年)八面観 大連の二十年』
1939年(昭和14年)『木魚』

「前人遺芳」の奥付には、著作者・竹内担道、発行人・田中功男、発行所・木魚庵の住所として、大連市浪速町2丁目152號地 と記されています』
竹内記者の生年月日、没年、郷里など詳しいことが分かっていないようです』
立松さんがよく調べているのに感心する。早速、いつも会報の原稿でお世話になっている「日本記者クラブ」の長谷川和子さんにメールで尋ねてみた。長谷川さんは原稿の際もそうだがやることにメリハリが効く。二。三日して返事が来た「『満州新報』の竹内坦道さんについて、上智大学名誉教授の春原昭彦先生にお尋ねしてみました。先生の教え子に、現在、龍谷大学社会学部教授を務める李相哲さんという方がいらっしゃるそうです。李先生に「満州における日本人経営新聞の歴史」という著書があるということで、新聞協会の資料室で見つけました。その中に、大連支社(武内担道支社長)との記述がありました(126ページ)。該当ページを添付ファイルでお送りいたします。春原先生が続けて調べてくださったところ、「新聞総覧」1926年版に「大連支社長 竹内担道」とあるそうなので、李先生の本にある「武内」は「竹内」の間違いではないか、とおっしゃっています。明治末期の創刊ですから、もうご存知の人はいないと思います。詳しいことを調べるとしたら、李先生にあたっていただくのがよいのではないか、とのことです。下記の文庫などにも参考になる史料があるかもしれないとのことでした。外苑文庫(http://gaienbunko.web.fc2.com/index.html)」
竹内担道(黙庵)は木魚の蒐集でも有名。アララギ派の歌人・島木赤彦(長野県諏訪出身)が大正12年10月に南満州鉄道株式会社の招聘により、大連へ講演旅行で訪れた際、木魚の蒐集家として著名な竹内氏の家に案内されたという
(出典:『島木赤彦の満州旅行の旅程』信州大学・宮川康雄氏論文、1988)。

その後、立松さんはいろいろ調べられたようで昨年12月末に来たメールでは次のように伝えてきた。「先月は、大連・満州新報の竹内担道記者について、李相哲氏の本を教示いただき、ありがとうございました。その後、竹内担道について、以下のことが判明いたしました。1939年(昭和14年)以降については未だに不明ですが、判明したことをご連絡申し上げます。

「神奈川県高座郡寒川村に生れ、岡千仭塾にて漢学を修め、東京工手学校(後の工学院大学)で土木・測量を学び、明治39年に満州に渡り、土木請負業を開業後、明治43年に満州新報に記者として入社。息子の竹内正一は、明治35年に大連に生れ、早稲田大学仏文科を卒業後、満鉄ハルビン図書館長となり、小説家として活動。戦後、引き上げ後も執筆活動を続けられた」という。

竹内坦道について立松さんの調べでかなりわかってきたがまだ亡くなった年など不明な点も少なくない。誰かもっと竹内坦道さんを知りませんか・・・