銀座一丁目新聞

安全地帯(475)

市ケ谷一郎

相武台は暑かった

陸軍士官学校(相武台)は小田急沿線にあった。現在も相武台前駅として名が残る。昭和12年(1937)日本陸軍の幹部揺籃の地であった市ヶ谷台(現陸上自衛隊)より航空兵科は埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校、地上兵科は神奈川県座間の陸軍士官学校と分かれ移転し、士官候補生の原点、象徴の聖地であった。昭和天皇によって命名され、相武台は陸軍、航空は修武台と称した。(当時、空軍はなく陸軍、海軍に各航空隊があった。)

卒業を間近に控えた我々59期地上科の候補生(19才前後)は、空襲で勉学に支障を来すので昭和20年(1945)6月6日相武台より長期野営演習(疎開)と称し、長野県北佐久郡の各小学校に分宿して教育を受けていた。今回は恒例の夏季演習で8月3日歩兵科は長野よりこの西富士演習場(現在朝霧高原という)へ実弾射撃を含め東京駐在の実兵を指揮し、実戦さながらの演習に来ていたのであった。

昭和20年8月15日朝、正午に重大放送の知らせがあったが、前日より終夜演習で夜通し有名な青木ヶ原樹海の中、敵司令部奇襲の想定で、漆黒の闇の中をウロウロして夜が明けてしまい失敗。くたくたになって宿舎に帰ってくると隣の区隊(クラス)は、演習用の大切な兵器である軍刀を無くした者がいて、全員疲れているのに暑い中、捜索に出て行った。昼までこちらは横になって休養しているのに気の毒にご苦労なことだ。紛失した候補生も心中いかばかりか。その方が気になる。どうせ、放送の方はまた、しっかりやれとの元気付けだろうと多寡をくっていたのだが。
かくて、運命の8月15日正午、演習隊全員約500名は重大放送を聴くため、炎天下の演習場の営庭に集合した。雑音がはげしいが生まれて初めての天皇陛下のお声に驚きながら放送を拝聴する。小生は、奇しくも「ポツダム宣言」がなんであるか、宿舎に張り出されていた某日の新聞のコラムに小さく出ていたのを、何となくちらっと見て「軍隊は武装解除して故郷に帰す」というのを一笑に付していた。そのポツダム宣言受諾が飛びだした玉音放送の後、アナウンサーが解説し、軽挙妄動をしないようしきりに国民に呼びかけていた。全く、励ましの放送ではなかった。ここで、わが人生180度転換してしまうのか。宿舎へ戻り呆然自失、悲憤慷慨、落胆、声をあげて泣くもの、われらの青春がいっぺんに吹き飛んだ忘れられぬ瞬間であった。嘘だ、こんなことがあってたまるか。そして、こころの拠りどころ母校の相武台へ帰ろう。まだ、負けてはいない。場合によってはそこで相模湾より上陸する米軍と一戦交えて華々しく死のうと考える。

演習隊幹部も意を固め、武装する軍隊の移動は禁止するとの陸軍省通達があったらしいが、敵機の襲撃に備えつつ隠密裡に翌16日夕刻、装具をまとめ全員隊伍を組んで相武台へ向け夜行軍、富士五湖の河口湖で昼間一泊、同所を夜出発。18日朝、御殿場より列車で相武台へ向かう。あいにく小生たちは92式重機関銃の実弾射撃の訓練中であり、装具のほか、重機関銃と、その実弾の入った弾薬箱を馬に載せ引っ張って歩くことになった。40キロの装具に小銃を担ぎ、馬がいたのでは休む間もない。水、かいば、脚をこすってやる。馬がバテれば載せている武器弾薬を担がなければならない。案の定、2日目暗夜の籠坂峠を下るときは馬がフラフラ始め必死で引っ張る。今は有料道路でアッと言う間だが、あのころの旧道はジグザグで、富士の須走りと同じ火山灰、ズウッともぐる難路であった。かろうじて御殿場駅に着いた一行は馬より武器弾薬をおろし、列車に放り込む。その後、馬の処置はどうしたか。とにかく松田駅経由で炎天下の相武台前駅に18日昼頃到着、母校へ。

久しぶりの相武台は敗戦の面影はなく、上空は先輩や厚木海軍航空隊の飛行機が徹底抗戦と乱舞しビラを撒く。我々も「君側の奸」(天皇陛下を取り巻く悪いやから)のため、放送があったのだと思い返し、いよいよ本土決戦の決意を固める。しかし、8月21日夜、小生の区隊(クラス)約40人が区隊長(受け持ちの教官)を中心にして徹底抗戦について話し会おうと校庭の草むらに車座に座り談論風発が始まるところ、やおら寺本克之候補生(戦後自衛隊幹部)が発言、「天皇陛下の放送の通り戦さは終わったのだ。大御心を体し不忠ものにならないでくれ。どうしても戦うなら俺を殺してから行け」と承詔必謹の悲痛な説得、これには全員しゅんとして声なく、暗闇のなか軽率な自分たちの不明を恥じ、彼の決意に頭を下げた。翌22日、大講堂に全校候補生を集め、主戦派と目されていた生徒隊長八野井大佐から声涙下る説得により、鉾をおさめ、撤退命令を受け入れざるを得なかった。

一方、米軍は、25日本上陸軍の先遣隊を厚木飛行場に到着させる予定であったが台風のため遅れ28日になり、30日はマッカーサー軍司令官も到着した。24日までに付近の日本軍は撤退せよとの通告があり、本校も該当し、撤退を決したのであった。ちなみに25日以降、相模湾茅ヶ崎沖(後日米軍本土上陸作戦目標地点と判明)には空母を含む艦艇60数隻が出現し、4発の航空機が乱舞していたという。この戦力、結局、われらは軽挙妄動「井の中の蛙」であった。

残念ながら22日夜同期生一名の自決者を出した。生徒隊は、翌23日相武台に決別、再び疎開先の長野へ向かう。身辺整理を終え27日学校本部のあった望月高女校庭に全員集合、解散式、生徒隊長より次のような訓示があった。

  1. 諸氏は苦難に満ちたる皇国将来のための礎にして真に国の宝なり。諸子の精神は永く皇国に伝承せられざるべからず。諸子宜しく目下の苦痛を克服し上御一人(かみごいちにん)の在わします限り喜びて生き恥をさらすことに甘んじ真に皇国の将来のための懸命の祈願と無言の奮闘とに生くべし。
    これ、目下の諸子の唯一の忠節にしてこれ以外絶対に道なし。諸子今後の心境において右と背致することなきを合掌切願す。諸子これを諒せよ。(原文)
  2. 統帥系統に基づく指導に服し整然、粛々と行動せよ(要約)
  3. 士官候補生の矜持を持って帰郷せよ。軽挙妄動を戒む。同期生の団結、親睦を保持せよ。(要約)
  4. 復員業務は上官の命に整斉と実施せよ。(要約)
    終わりに臨み諸子将来の多幸を祈りまた、切に自重と自愛を望む。(原文)

それは、相武台陸軍士官学校第59期生の粛として声なき終焉であった。
8月31日、同期生は再起を約し、特別仕立ての復員列車で整然と故郷へ復員して行った。(現在約3分の1弱が生存、卒寿を迎えている)

(参考文献)
陸軍士官学校            秋元書房
望乃(陸軍士官学校第59期生史)  五九会
相模湾上陸作戦           有隣新書