銀座一丁目新聞

追悼録(570)

加東大介の「南の国に雪が降る」

加東大介の「南海の芝居に雪が降る」(発表・昭和36年3月)を何度読んだことか。『完本 太平洋戦争(下)』に収められた作品の前書きには次のように書かれている。「峻嶮な山脈、深いジャングルと疫病と飢餓と、悲惨なことばかりの太平洋戦争下の戦闘において、ニューギニア戦はその悲惨さにおいては屈指のものとなった。米豪州連合軍の包囲下に、人間の極限まで戦って日本軍は敗れた。戦死5万7千余は何を語るか。そのニューギニアの西北端マノクワリ付近に追い詰められ最後の戦闘を待つ日本軍に、一つのうるわしい物語があった。描くは戦後映画界の名脇役の一人、当時陸軍軍曹」

本名は加藤徳之助。前進座の歌舞伎役者で市川筵司と言った。兵站病院の衛生軍曹。時に33歳であった。蘭領ニューギニアの首都マノクワリで加藤軍曹の下で繰り広げられた『お芝居』は昭和36年、NHKでテレビドラマとなり、久松静児監督・「南の島に雪が降る」で映画化もされた(東京映画―東宝、加東大介,伴淳三郎が出演),当時、大変な話題となった。今回、前進座の瀬戸口郁・脚本、西川信広・演出の「南の島に雪が降る」(8月14日・東京・日本橋三越劇場)は初めてみるお芝居であった。マノクワリで演劇班が出来たのは本隊の第二軍司令官豊島房太郎中将(陸士22期)以下大部分が南のパボに転進した後であった。この本隊は後に「ニューギニア死の行進」と言われ、ほとんどの将兵が飢餓と疲労で戦死した。マノクワリに残ったのは深堀游亀少将(陸士28期・のち中将)指揮の残留部隊で、演劇分隊の話が持ち上がった。村井勲大尉(山崎辰三郎)と杉田誠大尉(姉川新之助・原作では杉山誠で演劇評論家)の進言であった。加藤徳之助(嵐芳三郎)と長唄師匠の叶利明(中嶋宏太郎)とスペイン舞踊教師の前川悟(忠村臣弥)の三人が林誠参謀(藤川矢之輔)の前で「越後獅子」を披露して決まった。100人を超える応募者があった。採用試験で選ばれたのは元コンビア専属歌手・森川善朗(澤田冬樹)、カツラ屋息子・塩原勝(岸槌隆至)、仕立て屋・斎藤和弥(本村祐樹)、節劇の役者・蔦山道雄(新村宗二郎)脚本家・門田善吉(上瀧啓太郎)、友禅職人・小宮幹之助((松浦海之助)、僧侶・篠山竜照(益城 宏)・・・敗戦まで日本は徴兵が国民の義務。国民皆兵であった。多士済々の人々の集団であった。プロローグとエピローグは叶である。彼が日本から持ってきた三味線の皮はジャングルの湿気でダメになり.乾麺ポウの入れ物の、薄いプルキを貼って代用した。将兵は三味線の音色を聴いて涙を流した。

高射砲隊にエノケン一座の有名な如月寛多がいるというので無理して引き抜いたところ偽者であった。偽者・青戸光男上等兵(早瀬栄之丞)は一時、エノケンの弟子をしていただけであった。思案する加藤軍曹に村井大尉(原作によると出征前は会社の重役)は「もう生きて帰れないとすればこのまましておくのが功徳というもの」と諭す。「功徳」。人間の生きてゆく知恵は凄い。嘘も飲み込んで共に生死を共にする。第1回の公演は昭和19年11月3日、ジャングルの掘立小舎の将校集会所で開かれる。絶賛を浴びたのが前川の女の着物を着て女のカツラをかぶって踊った『長崎物語』。前川の美しさに将校たちはあっと声を飲んだ。

「戦時中演劇とは何事か」と言う硬派もいたが「これは必要なもの。全部の兵隊に月一は見せたらどうか」と言う話になった。さらに劇場建設までに話が進む。もめ事も起きる。叶が馬肉を取りに行ったのだが持ってきたものは馬の尻尾。「これで良いカツラが作れる」と持ってきたものだ。青戸と森川は叶をののしる。食いものより芸術品の職人気質をかいまみせる。

「マノクワリ劇場」の杮落としは昭和20年4月29日であった。この日から終戦を挟んで昭和21年5月まで一日も休まず幕を上げた。主な演目は長谷川伸作「瞼の母」「関の弥太っぺ」「一本刀土俵入り」岡本綺堂作「権三と助十」「相馬の金さん」川口松太郎作「号外五円五十銭」中野実作「二等寝台」行友李風作「国定忠治」そのほか「父帰る」「浅草の灯」「暖流」などであった。観客は7千人に上る。加東の戦友となる。

圧巻は雪の降る場面。お芝居では東部ニューギニアで全滅したとされるワルパミ部隊の生き残り田代慶輔(松波喜八郎)が杖をついてぼろぼろの軍服をまとい演劇分隊へきて「死にかけている東北の兵隊に”雪“を見せてやってほしい」と頼む。原作では加藤軍曹が次の狂言を申告にゆくと、豊島司令官が「ここには全国から兵隊が集まっている。一年中この暑さでみんな雪を見たがっているんだ。何とか雪を見せてやれんか」と言う次第になっている。そこで「関の弥太っぺ」で弥太っぺが何年かの後に娘に会いに来たときに雨が降る。そこを雪に替えた。地面の雪はパラシュート。飛行機がないのだからいくらでも使えた。木々の雪は病院の脱脂綿。三角の紙の雪を上からまく。雪の降るシーンに200名を超える兵隊さんが両手を顔を抑えて泣いた。東北の部隊であった。この部隊に居た人が戦後、加東大介のもとに手紙を出す。「帰ってからの芝居はみなつまりません。ニューギニアのような立派な演劇は、その後見ておりません」とあった。長谷川伸さんは加東大介のニューギニアの話を聞いて「役者は人を楽しますものなのだよ」といったという。

加東大介は昭和50年7月31日64歳でこの世を去った。すでに40年たつ。後輩の役者たちがその遺志を継いで活躍しているのだから加東大介も以て瞑すべしだ。

(柳 路夫)