銀座一丁目新聞

安全地帯(474)

湘南 次郎

「明治日本の産業革命遺産」登録などへの異議

老生あと数か月で90才になるが昭和・平成をまるまる体験したことになり、まさに生き証人になる。そこではっきりしておきたいことに、今回の韓国の言いがかりである。第2次大戦以前、明治43年(1910)8月29日、日清戦争(1894~5)後、今まで清国(中国の当時の国)の属国だったのを、日本が独立国として認めさせたのだが、国は倒産寸前の有様、野心もあったろうが、日本が遂に併合して救ったのだ。荒廃した国土興隆のため、学校や工場を建設、インフラの整備など文化、文明の数々を援助した。と、われわれは、歴史で学んだ。

かくして韓国・北朝鮮の人(いわゆる朝鮮人)は日本人となった。卑近な例として、老生のいた陸軍士官学校の2年先輩に満州国陸軍軍官学校から来た高木正雄という半島出身の優秀な候補生がいた。日本で軍官候補生は、士官候補生と教育・訓練・起居をともにし、将来は満州国陸軍の幹部になる人で差別はなく教育を受ける。かれは、戦後朝鮮戦争で韓国軍の幹部として活躍、大統領になって「漢口の奇跡」を起こした現大統領の父君朴正熙氏だ。かれが入校前に小学校の訓導(教員)だったとき「一死もって御奉公」と血書して軍官学校を志望し、新聞にも出た軍国青年だったそうだ。大所高所に立って将来を見据え母国の再興のために尽くし、犠牲になられた英雄だ。

現大統領がその英雄のお嬢様と思うと最近の言動は残念至極だ。第2次大戦中、一般庶民の中で、半島の人も日本人として生活必需品や食糧の配給を受け、わけへだてなく一緒に空襲があれば防空壕に入った隣組仲間であった。そして、彼の国とは一回も戦ったこともないのに、戦後外国になった半島の韓国との補償問題は、はっきりお互いが了承して、ケリがついている。今回、明治遺産の登録に韓国が被害者意識で異議をとなえたのは、三菱長崎造船所、端島炭鉱(通称軍艦島)等などの強制労働、果ては初代総督だったばかりに伊藤博文が学んだ松下村塾まで。歴史認識の違う民族を隣人に持った不幸に唖然とせざるを得ない。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」か。

戦時中(1945まで)は、全国民、老若男女お国のために滅私奉公、一身をなげうって尽くしたのであるが、はたで見たらそれが自分の意思に反する強制的な労働かも知れない。もちろん統制され自由勝手には出来ないし、みな平等に奉仕し、また働かされたのだから。強制労働と簡単に言はれるが、法を律するに強制はつきもの、生きるか死ぬかの国の興亡にかかるとき協力するのは当然、勝手な真似ができないのは当たり前だ。半島の人ばかりを労働させたのではない。みな同じく不自由を忍んで協力したのだ。難しい法令を抜きにして戦時中あった勤労動員の一部を説明してみよう。

「徴用」青年が徴兵、応召で軍に行ったあとの労働力不足を補い、軍需産業の拡大で中小企業が合同をし、従業員の余剰人員を強制的に集め(強制連行ではない)、給料や食事も給与され労働に従事させた。商売をしていた老生の家でも店員が軍需工場に振り向けられたのを覚えている。両親も急の手不足で困ったらしいが、死ぬか生きるかの戦時中なのだから多少の支障は我慢するのが当然だ。これには、もちろん日本人であった半島人も含まれた。

「学徒出陣」一部の学生に与えられていた徴兵(20才)延期措置を撤廃して徴兵検査を受けさせ、合格者を軍隊へ入隊させることとした。雨の中神宮球場で東条さんが観閲し学生が鉄砲を担いで分列している画面を良く見るであろう。「きけ、わだつみの声」は有名、戦地へ出陣、多くの護国の戦死者を出した。もちろん、半島出身者も多数おられたと思うし戦死者も出たであろう。

「女子勤労挺身隊」これが問題だ。まだ健在の方も多くいるのに、朝鮮人慰安婦と混同されても抗議もせずおとなしいのが歯がゆい。日本人の14才~25才未満ぐらいの独身女性、もちろん半島人にも女子勤労挺身隊があった。この方たちこそ日本人として勤労動員され、現地の軍需工場等で日の丸の鉢巻きをしてお国のため真面目に働いた方々なのだ。もちろん内地と同じような方が対象だった。そして、少なくとも給料、食事とも与えられ働いた。以上、その女性たちに感謝こそすれ、慰安婦のイの字も考えられないはずだ。自国の女性に強制的に挺身隊の名のもとに、慰安婦として連れていかれたとは誠に失礼極まる。女衒(ぜげん)といういやしい慰安婦集めの個人商人がカネをひけらかして貧しい家の子女を無理やり引っ張っていったのだろう。女衒のなかには半島人もいたらしいから、連れやすい半島人を慰安婦に狙ったのではないだろうか。

「学徒勤労動員」軍需工場などの労働力不足解消のため男女を問わず、中学生(12才)以上の学徒に働いてもらうことになる。もちろん半島の生徒も机を並べていただろう。大切な勉学をさておき、学校を工場にかえ、通勤し、空襲におびえながらも、健気に働いた。もちろん犠牲者も出ただろう。戦後少し中学校の教職にあった老生の生徒諸君は、みな経験者で辛い体験談をよく聞いたものだ。

「徴兵」や、「召集」も当然半島人も日本人であるから適用されたが略すことにするが、当時も決して差別してはいないのだ。今や周囲の時局は急変、対抗意識、被害者意識を捨て、歴史認識に相違があっても、仲良くやらないと西や北に虎視眈眈と貴国やわが国を狙うやからの術策にはまってとんでもないことになる。危機がせまっているのを直視していただきたい。