銀座一丁目新聞

花ある風景(569)

並木 徹

スポニチの仲間たち

「銀座展望台」(7月28日)に次のように書いた。
「スポニチを離れて19年たつ。27日、当時、主に総務部にいた有志で私の卒寿の会を新宿のホテルで開いてくれた。昔話に花が咲いた。昨今、日付をしばしば間違える私のため幹事は3回も私に確認の電話をよこした。すでに会社を定年退職しているのに神奈川県庁で難病申請受け付け業務をしている者。明治座の演劇養成所に通い勉強、今、同期生10人とお芝居をやっている女性など『定年後』をそれなりに楽しんでいるのに感心した。
1人の女性は帰える方向が同じだという理由をつけて府中まで送ってくれた。参加者8人。よい部下を持った。感謝のほかない」

幹事役は松村久さんで当日、私のスポニチ時代の出来事をまとめた資料をくれた。当日の出席者、小西良太郎さん、大隅潔さん、田中秀幸さん、国部悟布さん、堀裕子さん、宮嶋敏子さん、西村正子さんらの顔を思い出しながらスポニチ時代を振り返るのも悪くないと考えた。社長になったのは昭和63年12月12日。時に63歳。親会社・毎日新聞の社長は渡辺襄さん(故人)。私が社会部デスクの時、渡辺さんは政治部のデスク。論説委員の時は一緒に仕事をした。お互いに気心はわかっている。社長就任挨拶にドクターハーマーの「人間は意志を持ち、思案し、実行し、努力すればどんな願いもかなえられる」の言葉を引用して社員の奮起を促した。スポニチ社員の数は380人。社会部長の時が105名、西部本社代表の時が800名であった。師団長の部下は1万名を超える。なすべき新聞としての戦略・戦術は十分わかっていた。スポニチに来て驚いたことが一つあった。それは借金より預金の方が倍もあることであった。この資金を使って面白い事業を展開しようと考えた。実際にスポーツ新聞らしからぬ事業を展開した。その前に「スポーツを中心とした総合大衆紙面」(喜怒哀楽をはっきりさせる庶民感覚の新聞)の展開を考えていた私にはユニークな発想をする編集局長が欲しかった。役員の石井経夫さん(故人)に聞くと「傍系の会社にいる小西君がいいでしょう」という。そこで小西さんと食事をしながら雑談をした。第一印象は「やんちゃなきかん坊主」という感じであった。私の出す企画に常に+アルファをつけて紙面化した。この小西さんが今や演劇の俳優さんだから人間は何処までも成長する。秘書の堀裕子さんも演劇の道を選んだ。顔が引き締まっている。私の健康に気を遣い首に帯状疱疹が出来た際、いち早く見抜き、皮膚科へ案内してくれた。お蔭で軽くて済んだ。大隅潔さんは東京五輪の男子背泳日本代表というよりTBSの「ブロードキャスター」の方が有名であろう(平成3年4月から)。ともかく話が面白い。在職中は仕事をするより講演で忙しかった。西村正子さんは英語が堪能であった。平成6年6月ウィーンで開かれた国際発行者会議で講演した際、原稿を英訳してくれた。わかりやく書かれており、参加者から喜ばれた。今や一児の母でご亭主は経済雑誌の記者をしている。加藤敏子さんはいつの間にか宮嶋極さんと職場結婚して子供はすでに8歳になるという。宮嶋極さんは6月の人事異動でスポニチの執行役員となり、スポニチクリエイツ社長となった。敏子さんの内助の功を見逃すわけにはいかない。国部悟布さんは地味な正確ながら私が頼んだことをきちんと誠実にこなしてくれた。感謝のほかない。田中秀幸さんにはお世話になった。スポニチが伊豆大仁に設けた「大仁山荘」の実質的医経営者であった(平成2年6月開業)。玄関に掲げられた「大仁山荘」の字は作家の渡辺淳一さん(故人)の揮毫である。田中さんは社員やその家族に美味しいご馳走をつくってくれた。美味しい地酒を飲ましてくれた。ここで社員たちが憩い、楽しみながらよいアイデアが生まれた。社外の人を招いての懇談を通じてスポニチの読者が増えていった。ここを手放したと聞いたのはスポニチを退いて数年たっていた。不動産の想定外の価値を知らない経営者が少なくないのは驚くこともない。だが卒寿となって人の情けが身に沁みる。その情けがとても嬉しい。