銀座一丁目新聞

花ある風景(567)

並木 徹

歌の力、人物の力量を考える

磯田道史著「無私の日本人」(文春文庫・2015年6月10日・第1刷発行)を興味深く面白く読んだ。歌人「太田垣蓮月」の章で蓮月が幕末の戦乱に心を痛め「人が死なぬように」と祈り続け、官軍が旧幕府追討の軍を発せんとしたときに西郷隆盛に「歌」で直訴を企てたとある。
「あだ味方 勝も負くるも 哀れなり 同じ国の 人と思えば」
蓮月は「心の声」を和歌に託して優れた歌を紡いだ人である。
西郷隆盛と国事に奔走した儒学者春日潜庵は知人であったし、門弟には薩摩藩士も多数いた。時に蓮月、77歳.西郷、41歳。

旧幕府追討伐の親征の詔が下ったのが慶応4年2月3日。有栖川宮熾仁親王総裁の元、西郷隆盛や長州の広沢真臣らが参謀として東海道を下る。薩・長・土・肥の将兵が錦旗を翻して「宮さん宮さん…」の軍歌第1号を歌い、江戸城を目指して進撃した。磯田さんの本によれば、西郷は大津の軍議でこの和歌を示し、この国内最大の内戦の在り方について大いに悟るところがあったという。「この国を焼土にする。そこから新しい日本を作る」。西郷のそういう考えを変えたのは、蓮月であろうと指摘する。これは磯田さんの新説である。私も歌の力を信じたいのだが・・・
西郷が「3月15日江戸総攻撃を行う」と号令したのは3月6日である。大津で軍議を開いたのは2月3日から3月6日の間である。とすれば、西郷の心の中に「内乱は避けたい」と言う気持ちを増幅させ決心させた西郷隆盛と会談した山岡鉄舟と勝海舟の登場を待たなければなるまい。
童門冬二著「西郷隆盛の人生訓」(PHP文庫)によれば、西郷に戦争の効用を説いたのは土佐藩郷士・中岡慎太郎である。中岡は「日本を焼土にする」とは表現せず「日本人は血を見なければ絶対に意識を変えない」と言った。確かに日本人は行くところまで行かないと納得しないところがある。「地獄を見ないとわからない」のである。中岡はさらに言う。「平和の裡に政権を天皇に戻すことが出来てもけっして徳川幕府はつぶれないでしょう。根を断つためにはやはり戦争を起こさなければだめだ」。それより前に西郷は当時神戸の海軍操練所のトップをしていて首になったばかりの勝海舟に会っている。勝の話では有力大名が連合して、徳川将軍を一大名にしてその大名会議の議長にし、徳川幕府を運営すべきだというのである。徳川幕府をいったん解体して新しい共和政体にすべきである。その主力になるのが薩摩藩と長州藩ではないかと言う意見であった。この意見に西郷は仰天した。自分の目が開かれる思いがしたと伝えられている。勝は数年前アメリカに行って共和政府に実態を見ている(咸臨丸で万延元年1月13日品川出港、2月26日・サンフランシスコ到着・3月18日帰途に就く)。時に元治元年(1864年)9月11日。江戸城引渡しの4年前の出来事である。この時二人は肝胆照らす仲となった。徳川幕府が構造改革して平和裡に政権を移譲する。それが聞かれなければ討幕の道しかないということである。和平策か流血革命か・・・3月6日に「3月15日に江戸総攻撃」と決定しても西郷隆盛の腹の中はなお迷っていたということであろうか。
西郷と山岡の会談は駿府の西郷の陣営で行われた。日時は3月9日である。山岡は一幕臣に過ぎないが至誠の人であった。幕閣に将軍慶喜が恭順謹慎の誠意を朝廷へ訴える者がいない。官軍は江戸へ近づいてきているのにみなおろおろしているだけである。山岡は己の一命を顧みず西郷に主君の誠意を訴えんとして3月5日に山岡は勝海舟を訪れ「駿府に赴き西郷と談判したい」と申し入れた。勝はその熱意と誠実さに打たれ、預かっていた薩摩藩士・益満休之助を随行させ西郷宛ての添書を渡した。その添書には「今の日本の情勢は外国の侮りを防ぐ時である。だから君臣謹んで恭順している。徳川の士民も皇国の一民である。戦ともなれば不祥事も起きかねない。適切な処理してほしい」と言う趣旨のことがしたためてあった。時に山岡、32歳。勝、46歳であった。
総督府が示した徳川処理案は次のようなものであった
・慶喜儀、近親恭順の廉を以て備前藩へお預け仰付られるべき事
・城明け渡す申すべき事
・軍艦残らず相渡すべき事
・城内住居の家臣、向島へ移り慎み罷り在るべき事
・慶喜妄擧を助け候面々厳重に取り調べ謝罪の道屹度相立つべき事
旧権力の完全なる武装解除と関係者の厳重な処罰の要求であった。
1については山岡の嘆願を入れ西郷が善処することを約束した。
官軍の意向が分かった勝海舟は最悪の事態を考え手を打った。その進軍を妨げんものとしてあらかじめ任侠の親分や火消しの頭に江戸を焼き払い、焦土化することを依頼した。また房総に船を集めて火を見たらすぐに江戸川に船を入れて難民を救出する手立てまでした。それなりの決意をして会談に臨んだ。
西郷と勝の会談は3月13日、14日、江戸の薩摩屋敷で行われたといわれる。この会談が成功して江戸の炎上がくいとめられ、無辜の市民の命も助かった。傑物同士の触れ合いが悪い事態を好転させる。人の器量の大きさが歴史を変える。それにしても西郷の胸の中には大津の軍議以来、蓮月の「心の声」がしみ込んでいたのだろうか・・・