銀座一丁目新聞

 

追悼録(565)

新聞の号外合戦

毎日新聞の先輩・佐々木芳人さんの「エンピツ・酒・古道具少し」(鶴書房・昭和42年6月発行)を読んでいたら昭和15年1月、阿部信行(大将・陸士9期)内閣総辞職した後の後継内閣をめぐっての号外合戦の話が出ていた。A社が出した号外が誤報であったというから面白い。テレビ、ITの時代、いまさら号外でもあるまいと思われるが、駅前や繁華街で配れる号外は結構人気がある。新聞が健在であるのを示す上でも号外は出すべきであろう。
号外誤報の話だが、1月14日、内閣総辞職の後、次の首班は誰かに関心が集まっていた。当時、内閣が総辞職してそのあと、お召しによって宮中へ参内する者に組閣の大命が下るものとみられていた。同日畑俊六陸相(大将・陸士12期)が参内した。A社は直ちに「畑陸相に大命降る」と号外を出した。確かに畑陸相は有力候補であった。この間の事情を「木戸日記」は次のように伝えている。「1月14日(日)晴 午前9時平沼男(平沼騏一郎男爵)を訪う。昨夜電話にて面会を希望し越されしを以てなり。時局収拾につき、同男は近衛公の出馬を希望し且つ絶望に非ずととの考えを述べられしが余の見るところにては近衛公の心境の判断につき稍誤解せられ居る点を認めたる以てその点を説明し諒解せられたる模様なりき。結局畑(俊六)陸相か荒木大将(貞夫・陸士9期)と言うことに意見一致したり」
毎日新聞は号外の用意をしていたが出さなかった。その時の陸軍省担当・政治部記者の判断は「今の段階で陸軍が組閣の責任をとることはない。畑の参内は大命降下のためではない。たとへ畑に大命が降下しても陸軍は拝辞する。僕は首を懸ける」と言う事であった。その夜、米内光政海軍大将井(海相・海兵29期)に大命が降下された。政治部記者の日ごろの情報収拾の力の差が出た誤報号外であった。政治部デスクはのちに「竹やり事件」で有名になる新名竹夫さんであった。
手元の資料を見ると号外合戦が始まったのは明治37年の日露戦争時(2月6日開戦)で2月から明治38年9月まで大阪毎日新聞は498回も号外を発行している。大正元年9月13日の明治天皇のご大葬の際には初めて写真号外を出している。私に経験で言えば昭和51年7月27日、ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕された際、広告に入った号外を出した。後にも先にも広告入りの号外発行はない。ロッキード事件ではあらかじめ高官逮捕が予想されていたので広告を収集するのに時間的余裕があったからである。当日後楽園球場では毎日新聞主催の都市対抗野球大会中であった。号外を見た観客たちは政治へ怒りと不信の表情を見せたという。新聞号外がテレビなどに速報性で後れを取っても直接手にとってみるという活字文化の力はまだ十分にある。先人たちが残した財産を引き継ぎ伸ばしてほしいと思う。

(柳 路夫)