銀座一丁目新聞

 

追悼録(560)

俳誌『自鳴鐘』復刊800号を迎える

復刊800号と銘打った俳誌『自鳴鐘』5月号が主宰者・寺井谷子から送られてきた。昭和12年1月横山白虹によって小倉市で創刊された『自鳴鐘』は戦時中休刊を余儀なくされた。戦後復刊したのが昭和23年1月。ページ数36(5月号は106頁)。「薄くてもエネルギーに満ちていた」という。5月号の冒頭に白虹さんの「復刊の辞」が掲載されてある。実にすばらしい辞である。今読んでも新鮮である。久しぶりに胸の高ぶりを覚えた。
「復刊に際して俳句への観念と自鳴鐘の運営態度とに就て闡明すべきであろう。
俳句は十七音短詩型を骨格とするものであって、季語は表現技法に関して発達した肉づけであるとの観点に立っている。従って季語の補強を必要とせぬ作品の存在を肯定する」 季語は肉づけであったのか。季語が煩わしいと思っていたのは己の未熟さであったのを知る。私に無季語はまだまだ先の話しである。
「芸術は個性に利脚する個性の輝きの中に現代人の情緒現代人の呼吸を把握表現する事を念願とする。
芸術の仕事は否定の集積である。昨日の上に再び昨日の作品を重ねて何かあろう。この意味において反逆的精神は最も尊重されなければならない。
我々は一切の偉大なる芸術が常に反逆するところの精神によって創造せられた事を知っている。反逆的精神は純情孤高の精神に通ずる。自鳴鐘に拠る人々は此精神を以て結ばれ此精神に殉ずるであろう」

個性の輝きの中に己の情緒、呼吸を表現する。復刊800号記念応募作品の準大賞の句に「大陸の月皓皓と国破れ」(天川悦子)があった。白虹さんの心を継いだものだ。私は少年期を満州で送り、軍の学校に学び、戦後は余生と思い生き恥をさらして生きてきた。それなりの個性も情緒も呼吸もあるはずだが、未だそれを十分表現できていないのは芸術の道が遠いということか。反逆的精神も持っているつもりだが、まだ不十分と言うことか・・・
白虹さんが俳句を始めたのは大正11年九大医学部在学中、薦められて青木月斗の句会に出席、特選に入ったことによる。それ以後新興俳句運動の九州の旗手と呼ばれた。白虹の俳号は一高時代設立した「一高詩会」で師事した北原白秋と川路柳虹より一字ずつ得たものであるという。
復刊号に白虹さんはこんな句を載せている。「春泥に軍靴肩よりおろして売る」
私も同じような経験を持つ。ほろ苦い思い出である。私が復員したのは昭和20年8月31日であった。
復刊の辞の日付は昭和23年5月8日。時に白虹さん、48歳。私が毎日新聞に入社,上京した月である。23歳であった。私がデスクから俳句を勉強しろと教えられるのはそれから6年後である。
白虹さんと出会ったのは私が55歳。白虹さん81歳であった。貴重な出会いであったのに俳句を教わらず悠々たる大人の風格に触れただけであった。昭和58年10月、「病篤し」と聞いて病院へお見舞いに行った。夫人房子さんは詠む。「脱け落ちし夫の指輪にベッドの冷え」。私の7年半の小倉在任中、病気見舞いをしたのは白虹さんだけだ。とすると案外白虹さんに私淑していたのかもしれない。だがこの人の真の偉大さを知るのが35年後とは情けない。それでも白虹さんの4女・寺井谷子さんを師匠と仰ぎ。「秋の灯かくも短き詩を愛し」(谷子)と感じ俳句に精進するようになったのだから白虹さんも以て瞑すべしであろう。

(柳 路夫)