銀座一丁目新聞

 

追悼録(556)

戦死したプロ野球選手たち

今年もプロ野球がセリーグ、パリーグとも3月27日同時開催された。東京ドームを本拠地とする巨人軍は横浜DENAと対戦した。その東京ドームの21番ゲート前に「鎮魂の碑」がある。大東亜戦争で戦死したプロ野球選手74名の名前が刻みこまれている。青柴憲一(巨人)、青木勤(阪急)、天川清三郎(南海)荒木政公(阪急)、池田久之(阪急)、石井豊(セネタース)、石丸進一(名古屋) - 海軍少尉(14期海軍予備学生)で沖縄へ特攻戦死、戦死後海軍大尉。伊藤健太郎(巨人)、伊東甚吉(阪急)上田正(阪神)、大宮清(名古屋金鯱)、遠藤忠二郎(大東京)太田健一(イーグルス)大原敏夫(阪急)岡田福吉(大和)岡田宗芳(阪神)小川年安(阪神、日中戦争での戦死者)小野寺洋(黒鷲)織辺由三(セネタース)戒能朶一(名古屋)景浦將(阪神)―ルソン島で戦死。加藤信夫(阪神)川村徳久(阪急)北原昇(南海)鬼頭数雄(ライオン)―歩兵135連隊兵長・サイパンで戦死。木村孝平(黒鷲・大和)国久松一(南海)倉信雄(巨人)桑島甫(阪急)後藤正(名古屋)沢村栄治(巨人) -昭和18年12月2日屋久島西方会海上で敵潜水艦により輸送船が撃沈されて 陸軍伍長で戦死。三田政夫(巨人)島本義文(阪急)白木一二(名古屋)新富卯三郎(阪急),繁原(旧姓矢島)粂安(巨人)杉山東洋生(イーグルス)高野百介(南海)田部武雄(巨人)、田中雅治(朝日)、辻源兵衛(阪神)寺内一隆(イーグルス)永井武雄(大東京)中尾長(セネタース)中河美芳(イーグルス)―ルソン島沖で昭和19年7月11日戦死。中村三郎(大東京)中村政美(巨人)納家米吉(南海)西村幸生(阪神)野口昇(阪神)林安夫(朝日)原一朗(阪神)平林栄治(阪神)広瀬習一(巨人)福士勇(ライオン)伏見五郎(イーグルス)前川正義(阪神)前田喜代士(名古屋)政野岩夫(南海)増田敏(南海)松下繁二(阪神)松本利一(金鯱)宮口美吉(南海)三輪八郎(阪神)村上重夫(ライオン)村瀬一三(名古屋)村松長太郎(セネタース)村松幸雄(名古屋)―サイパンで戦死。森国五郎(阪神)森田実(金鯱)八木進(南海)吉原正喜(巨人)―ビルマで戦死。渡辺静(朝日)渡辺静夫(阪急)
戦死した74名のプロ野球選手のうち一人だけ沖縄へ特攻戦死した選手がいる。名古屋の石丸進一投手(24)である。八つ年上の石丸藤吉は同じチームの内野手であった。昭和20年5月11日鹿屋基地から神風特攻第五筑波隊(指揮官西田高光中尉)として出撃した。飛び立つ前10球ほどキャッチボールをしたと伝えられている。この日、鹿屋から特攻6隊37機が沖縄に向かった。石丸投手はプロ野球「名古屋」には昭和16年から18年まで在籍、昭和18年のリーグ戦では名古屋軍が巨人軍に次いで2位となったのに大きく貢献した。この年の10月12日後楽園球場で開かれた「大和」との対戦で5―0で勝ち、「ノーヒットノーラン」を達成している。
石丸進一投手については従弟の牛島秀彦さんが「消えた青春」の著書を出しており。岡本明久さんが映画「人間の翼」を制作している。ここに改めて国のために生命を捧げたプロ野球選手のために鎮魂と追悼の念を表したい。

(柳 路夫)