銀座一丁目新聞

 

安全地帯(460)

信濃 太郎


仲間との集い「五輪の会」に出る


陸士59期の有志が集まる五輪の会に出席した(3月17日正午開始)参加者24名。場所は大船駅前の中華料理店『千馬』。この朝、午前10時過ぎ、京王線府中の駅に着いてみると、人身事故のため電車が動いていない。20分ぐらいで電車が動くとのアナウンスンもあった。大船に行くには歩いて次の駅「分倍河原」に行き、南武線に乗り替え武蔵小杉駅―湘南新宿ラインで大船に向かう方法と府中駅からバスで国分寺駅まで行き。JRで新宿から湘南新宿ラインに乗り大船に行く方法と二つある。しばらく考えたが後者の方法を選んだ。新宿駅では午前11時15分発の逗子行に間に合った。定刻に遅れること10分。会はすでに始まっていた。府中駅で少しもたもたしたのがいけなかったようである。昨今このような場合判断が遅れる。年のせいか。
会を盛り立てたのは古屋康夫君のハーモニカ演奏であった。その演奏に合わせて「陸士校歌」「航空士官学校校歌」「航空百日祭」「山紫に水清き」「仰げば巍巍たる」「同期生会歌」など6曲の軍歌を合唱した。彼の独奏「北国の春」は見事であった。健康上から75歳から始めたというが「次会も演奏を」の声も出たほどの腕前であった。世話役の小池俊夫君、霜田昭治君、安田新一君の配慮でいつも貴重な資料をいたく。小田暁君の調べによると59期生の現存者は933名(不明者188名)。予科の中区隊別の物故者現存者の数も記されてあるので参考になる。霜田君の資料は三井物産の月例講演会での赤十字病院長の「ボケ防止の講演要旨」であった。「予防が最善の治療である」と図解入りのものであった。「一日8000歩」「休日はアウトドア」など肝に銘じる。また霜田君から亡くなった同期生横山信夫君の夫人節子さんが昨年11月に出した句集を紹介する。私は戦後70年を考える上にと昭和20年3月17日はどんな日であったか、徳川無声の「無声戦争日記」と清沢洌著「暗黒日記」の当日の日記を説明する。歩兵科の士官候補生は3月14日に1ヶ月の隊付が終わり10日間の休暇でそれぞれの郷里に帰省、母の手料理に満足するなど休暇中であった。程よく食べ飲んだところでこもごも立って河部康男君、荒木盛雄君、小林次雄君らが近況、健康上の注意などを語った。日ごろおとなしい則武忠雄君が謡曲「羽衣」を朗々と披露した。思わず彼が予科時代、浪曲をうなって区隊長に怒られたのを思い出した。名残は尽きず記念写真を撮って解散した。
会が終わった後、指宿清秀君、西村博君、安田君、霜田君、小池君らと近くの喫茶店で雑談した。この雑談が楽しい。時間が立つのを忘れてしまう。