銀座一丁目新聞

茶説

無責任罷り通る 「如月の恨みは深し花の束」悠々

 牧念人 悠々

「事件は世相を映す鏡」だという。川崎で起きた中学1年生殺害事件の経緯を見てそう痛感する。昔、母親は子供の泣き声を聞いて体の調子がわかった。今、母親は医者に聞かなければわからない。子供の顔にアザがあった時、母親は何故できたのか問わなかったのか。子供の声に変化がなかったのか、気が付かない母親ではあるまい。仕事が忙しいというのは理由にならない。親は子供を夜には外に出さなかった。しつけが厳しかった。夜、子供を外出させたことを今更のように後悔しても遅すぎる。また加害者の家庭についても問題がある。現在個人情報保護法の陰に隠れてそれぞれの個人の家庭のことが明らかにされない。だからこのようなひどい事件がなぜ起きたのかよくわからない。防犯上にも教育上にも一般の人には参考にならない。新聞はもっと積極的に切り込んだ事件を報道すべきだと思う。
「顔のあざ見抜けぬ母に春遠し」悠々

昔、学校は生徒が欠席すると先生は心配して自宅訪問した。生徒の顔を見て安心したものである。会えなければ生徒と会えるまで通い詰めた。学校の雑用が多すぎるというのは逃げ口上だ。生徒は母子家庭である。もっと注意を払ってよいはずだ。
昔、警察は些細なことでもとことん調べて事件の芽を摘み取り、未然に防いだ。今は聞きぱっなしである。別のグループが犯人の18歳に少年の自宅に謝罪を求めに行って警察沙汰なった。それなのに18歳の少年が「告げ口を恨んで」仕返しをするのを予測しなかった。出来なかったという方が適切かもしれない。テレビドラマ『鬼平犯科帳』の主人公はこのような気配がある時はすぐに手を打つ。これが犯罪防止の常識である。平成の世の中、警察官もすっかり紳士となり“一人の鬼平”もいなくなってしまった。閑があったら池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読んだらどうか。警察学校の正科に取り上げても良いと思う。
昔、人は目標に向かって最大の努力をした。それが当たり前であった。与えられた仕事にみんな責任を果たしたのである。それをみんな昨今は放棄したように見える。あまりにも無責任が罷り通っている。裏返せば危険予知に鈍感になったといえる。それぞれがそれなりの責任を果たしておれば事件が未然に防げたはずである。それぞれに役割を果たさず、いい加減な仕事をしたために事件が起きたのだ。現場の多摩川の河原に殺害された少年に手向けられた花束がうずたかくなった。悲しくやるせない気持ちになる。河原に吹く風が一層冷たく感ぜられる。

「如月の恨みは深し花の束」悠々