2015年(平成27年)3月1日号

No.637

銀座一丁目新聞

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追悼録(553)

坂東三津五郎さんを偲ぶ

   坂東三津五郎さんが亡くなった(2月21日、享年59歳)。私が好きだった中村勘三郎さんが亡くなった時(2012年)三津五郎さんは「神様はどうして歌舞伎界から大切な人を奪っていかれるのだろうか」と嘆いたというがそのままこの言葉を三津五郎さんに贈りたい。何故、歌舞伎俳優は長生きしないのかと疑問に思う。三津五郎さんの舞台を2014年8月23日、こまつ座「芭蕉通夜舟」で見た。劇場は新宿紀伊国屋サザンシアター。芭蕉を描くのに「通夜舟」と題をつけた井上ひさし奥深い文学に三津五郎さんは端正にして品格ある演技で答えた。芭蕉は死ぬ4日前に「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を作る(1694年・元禄7年10月8日・享年51歳)。風雅と旅に心をせめ抜いた芭蕉最後の句である。その1ヶ月前に「秋深き隣は何をする人ぞ」を読む。三津五郎さんも子供のころから俳句に親しむ。その句に 「凍鶴のそのひとあしの危うさは」がある。 

 舞台は「私は芭蕉を演ずる坂東三津五郎でございます」と風変わりな口上で一人芝居36景が始まる。名句がどのように作られたか、私はわくわくしていた。『古池や蛙飛び込む水の音』。何匹もの蛙が柳に飛び上がる風景が出てくる。三津五郎が柳を巧みに操る。それにたくさんの蛙が飛びつく。「ゲロ、ゲロ」と泣く。 

 漂泊の詩人は1689年・元禄2年3月22日「奥の細道」の旅に出る。時に46歳。演ずる三津五郎さんは58歳である。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす・・・』なるほど芭蕉は舟の上に生涯を浮かべていた。通夜舟が出てくるのも不思議ではない。旅中吟の初めは「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」に芭蕉は苦吟する。「しみこむ」か「しみいる」か・・・。ここは山形領の立石寺。慈覚大師が開基したところ。岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず崖をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し佳景寂寞として心すみ行くのみ覚ゆと「奥の細道」にある。“しみいる”とは「蝉の声と一つになって芭蕉の心は、岩を貫き地球の奥深く浸透してゆく」と東大教授小森陽一は解説する。凡人にはこの「しみいる」の表現は出てこない。えらいものだと感心してつくづくと三津五郎さんの顔を眺める。どんな顔して三津五郎さんは俳句を作っていたのだろうかと思う。 

 「何ごともなかつたやうに白絣」 
 「花の夜の仏無口におはします」三津五郎 

 旅に出て3ヶ月余り後の7月4日、越後出雲崎で詠んだのが「荒海や佐渡に横たふ天の川」である。佐渡には順徳院など有名な人々が流罪になり悲運に泣く。また金山で人間の喜怒哀楽が渦巻いた。そんな人間世界の些事とかかわりなく広々と、天の川が佐渡島にかけて横たわっている。『蒼古雄大な古典的味わいを持っている』とある解説書にある。想を得て三日後の句だという。

 「便座」が舞台に出てくるのも珍しい。「天上天下唯我独尊」の場でもあるが「ただの人」を示す場所である。17文字の世界に生きた男は通夜舟に乗せられて遺言通り大津の義仲寺に向かい、同寺で葬儀が行われた。「招かざるに馳せ参じたるもの3百余人」と言う。平成の世、2月25日東京・青山斎場で行われた坂東三津五郎さんの葬儀にはフアンを含めて5000人の弔問者が参列したと新聞は伝えていた。



(柳 路夫)