2015年(平成27年)2月10日号

No.635

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茶説

「テロ」と「特攻」を同一視する朝日新聞を憐れむ

 牧念人 悠々

 国会は衆議院・参議院とも「イスラム国」のテロについて「いかなる理由や目的によっても正当化されるものではない」と非難決議を行った(2月5日・6日)。この決議を聴きながら朝日新聞夕刊コラム「素粒子」(1月13日)の表現を思い出した。思い出したというよりシコリとなって残っていたのだ。コラム「素粒子」には次のように書いてあった。
 「少女に爆発物を巻きつけて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった」


 「特攻に称賛を送った」のは事実である。大東亜戦争時、『ああ神風特攻隊』(作詞・西条八十、作曲・古関裕二)まで作られた。朝日新聞自身も昭和19年10月29日一面で「身をもって神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特攻隊五神鷲の壮挙は、戦局の帰趨分れんとする決戦段階に処して身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報道する。五神鷲は関行男大尉(海兵(70期)指揮する特攻機5機の事で、米海軍の護衛空母セント・ローに体当たりして沈没する戦果を上げている。この日は日曜日であった。このニュースを当時陸軍士官学校に在学中の私は生徒集会所の新聞で知った。言い知れぬ感動を覚えた。「われもまた後に続かん・・」と思った。関大尉は大正10年8月生まれで23歳、わずか4歳年上に過ぎない。同じ8月生まれなので親近感を抱いた。

 自爆は自爆で同じだが無差別に不特定多数の人を対象にする「テロ」と国同士の戦争で行われた際の「特攻」とは同列に扱えない。確かに「特攻」を直接に非難する表現はない。だが記事は明らかに同列視している。

 だからこそ産経新聞は「戦後70年」という企画記事の中でこの問題を取り上げ『朝日新聞「素粒子」に物申す  特攻隊とテロ、同一視に怒り』の見出しを掲げ「わずか4行だがこの記事を読んで言葉を失った。というより怒りが込み上げてきた」と書いた(1月29日)。私は怒りを通りこして「才子,才に溺れる」と憐憫の情すら催した。

 素粒子はそれなりの年配者で朝日新聞社内では名文家で通っている方であろうと推察する。悪い言葉で言えば非難を覚悟して書いたと思う。「事実」だけを記述したのである。まさに「老獪」。だが、わずか4行の記事でも知覧の特攻記念館を見学し特攻生みの親大西瀧治郎の資料を読んでから書いてほしかったと思う。

 国家存亡の際、自分の身を国に捧げる若者が現在いるのであろうか。自衛隊の指揮官であった同期生はどうしたら自衛隊員を死地に向かわせることが出来るかを悩んだという。敗戦の8月16日未明、自決した大西滝治郎中将は遺書を残す。「特攻の英霊に申す。よく戦いたり。陳謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども、その信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾れ死を以て旧部下の英霊とその家族に謝せんとす。次に一般の青年に次ぐ。吾が死をして、軽率は利敵行為なるを思ひ聖旨に添ひ奉り,自重忍苦する戒めとならば幸いなり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類和平のため最善を尽くせよ」

 素粒子は此の遺書を読んでもなおテロの卑劣と特攻の精神を同列に並べて書く勇気を持つか問いたい。

 ガダルカナル戦を戦い九死に一生を得たあとビルマ・仏印に転戦、復員した吉田嘉七さんが「ガダルカナル戦詩集」(1972年11月25日初版発行・創樹社)の「海軍さんに寄す」に歌う。「ひとときに身を弾丸として ひとときに勝を決する 君をこそ羨しいと言わめ 土を甞め、熱病骨を溶かすとも しかも我等は永らえて 生きたるままの鬼となり 一人も多く敵を殺さん」。吉田さんは言う。「私の詩は時には愛国の面を強調され、ある時は厭戦に焦点を合わされる。どう読まれても仕方ないがそのどちらでもないところ、且つそのどちらでもあるところに、兵隊は生きていたし、死んでいったのである」出征にあたり吉田さんは「万葉集」上、下二巻の文庫本を持参した。彼の詩には万葉の心が入っている。文章の道は深い。それより人生は奥深い。万葉集は人の心洗う。間もなく温かな春となる。万葉の森は素粒子も招いている。