2014年(平成26年)10月20日号

No.624

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茶説

夢はかなえるもの、さびしきもの

 牧念人 悠々

 新幹線が開通してこの10月で50年になる。東京―大阪間の東海道新幹線が実現したのが昭和39年10月1日。最高時速210q。「ひかり」4時間、「こだま」5時間で結んだ。

 「軌1435ミリ、時速200キロ」の新幹線による弾丸列車を鉄道幹線調査会(島安次郎委員長)が鉄道省に答申したのが昭和14年7月である。国会でその経費5億5610万円も承認された。島委員長の息子・秀雄が工作局車両課員として計画に参加するが昭和19年、戦局悪化で中止となった。鉄道人の夢は挫折する。だが夢は引き継がれ答申から25年もかかって実現する。

 新幹線を夢見る71歳の十河信二が昭和30年5月、国鉄総裁に就任したからである。4年前、桜木町電車火災事故で責任をとり民間の会社に在職していた島秀雄をわざわざ技師長に据える。誘いの言葉は「おやじさん弔い合戦をやらんか」であった。昭和30年に国鉄に入社の秀雄の二男・隆も新幹線の車両設計部門を担当する。

 大きな夢は多くの人たちによって懸命に支えられ、継続される。鉄道の広軌を最初に唱えたのは陸軍中将・貴族議員・谷干城である。明治20年「本州縦貫鉄道広軌改築建議案」を出し、福島―青森間、広島―下関間は広軌で建設し既成幹線も改築を求めた。西南戦争際、谷干城は陸軍大佐で熊本鎮台司令官であった。その時の体験から高速、大量の軍事輸送の必要を感じたからである。時の鉄道庁長官・井上勝は「日本は山が多く、線路は急なカーブや勾配が必要で、建設費用から言っても狭軌が妥当」と言って反対した。爾来、狭軌論が主流を占める。井上勝は鉄道の父と言われるほど日本の鉄道に尽くした人である。井上勝は伊藤博文らと密航して倫敦の大学で鉱山技術と勉鉄道技術を勉強。新政府に出仕し、伊藤博文ら鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線の構想を発表。新橋駅(品川駅)−横浜間の鉄道や東海道線を敷設した。

 新幹線の技術を支えた人たちは多彩であった。島秀雄技師長は言うまでもない。車両研究室長三木忠直と車両運動研究室長松平精は海軍技術廠で戦闘機づくりを担当していた。信号研究室長河辺一は陸軍出身の電気工学の専門家。敗戦後、いずれも国鉄に採用された技術者であった。

 ともかく新幹線は国鉄総裁になった十河信二が居なければ実現できなかった.敗戦国日本の復興を世界に認めてもらおうとがむしゃらに頑張った成果である。

 一抹の寂しさを感ずるのは新幹線開業の日、その開業式に十河信二、島秀雄の姿がなかったことだ。1900億円とはじき出されていた工事費が諸物価の高騰で倍増した。このため開業前に退陣させられたからである。東海道線については在来線の逐次線路増設という考え方の人もあって「新幹線推進派」をかならずしも歓迎しなかった向きもあった。何事にも光と影。コインにも表と裏がある。それでも人の世,そんなに無情でおられるのか・・・

 昭和の昔、武人はこの世を次のよう歌った。
 「功名、なんぞ夢の跡
 消えざるものはただ誠
 人生、意気に感じては
 成否を誰があげつろう」

 十河信二は部下の一人に次の言葉を残した。
 「一官清似水 万事信於己」