2014年(平成26年)7月20日号

No.615

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茶説

科学記事を発掘・注目せよ

 牧念人 悠々

 久しぶりに考えさせられる本を読んだ。牧野賢治著「科学ジャーナリストの半世紀」(化学同人刊・2014年7月15日発行)。自分史として書いたものだが現在の新聞の報道姿勢に警鐘を鳴らしている。牧野君は大阪大学大学院修士課程卒,専攻は物理化学である。毎日新聞で大阪本社・東京本社でともに仕事をした仲間である。

 毎日新聞に入社のころ「社会部記者は広く浅く物の事を知れ」と教わった。どんな事件・問題にぶつかっても対応できるためである。どうやら21世紀の取材はこれだけではだめのようである。著者は科学記者の充実を説く。私も科学記者を含め新聞記者に科学へのセンスを磨くべきだと思う。

 具体的な例を述べる。著者が挙げる20世紀最大の発見「DNAの二重らせん構造の発見」である。この世紀の発見を日本のジャーナリズムは長年にわたり無関心であった。DNAの二重らせん構造は1953年(昭和28年)4月25日号英科学雑誌「ネイチャー」に発表された(この年,牧野は毎日新聞大阪本社に科学記者として入社する)。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによる1000語ほどの短い論文であった。二入はこの論文で1962年ノーベル生理学医学賞を受賞する(ウイルキンズも共同受賞)。発見50周年にあたる2003年、科学雑誌はともかく日本の新聞はこれまで通り大きな関心を寄せていない。ニューヨーク・タイムズは2003年2月25日科学特集別刷「サイエンス・タイムズ」で12ページの特集でDNA発見の「50周年を迎えた革命」を報道する。それでも日本の新聞が沈黙を守った。その理由を著者は遺伝情報を担う物質的な実体としてデオキシリボ核酸は単純すぎるあまりもっと複雑なタンパク質が有力候補として多年にわたり追求されてきた。科学者も間違った思い込みとらわれていたとして、日本のジャーナリズムを庇う。だが、DNA鑑定が日常茶飯事になっている現状を見れば、新聞記者の「先見の明」と「センス」を問われる。

 ついで「悔いの残る水俣病」を取り上げる。水俣病の報道には医学的、科学的な分析追及が欠かせない。だから大阪、東京から科学部が乗り出すべきであったというのである。水俣病は1956年(昭和31年)に熊本県水俣市で奇病の多発が報告されて顕在化した。熊本大学の研究で1959年に「原因物質は有機水銀」と突き止められていた。チッソ側や東京の学者の反論があり、厚生省が「原因物質はメチル水銀化合物」と認めたのは1968年であった。この間、牧野記者は大阪に居た。このころ私は東京社会部にいた。被害を大きくしたのは新聞がこの問題にあまりにも無関心で科学に無知であったためでもある。公害学者の宇井純せめて半年ぐらい現場を見て物を言ってほしい」と言っていた。現場の住民たちは総べて「チッソの工場の廃液がおかしい」といっていた。「現場は宝の山である」。この反省から私は「新聞記者は現場研究者であれ」と説いたことがある。

 高齢社会を迎え、医療の進歩ともに「尊厳死」と「安楽死」の問題が「終の信託」として映画になるなど話題に上る。「日本尊厳死協会」(元日本安楽死協会)の会員は12万人を超える。協会が発足したのは1976年、太田典礼さんが創立した。日本で初めて東京で開かれた『安楽死に関する国際会議』を大きく取り上げたのは牧野記者であった。

 牧野記者を論じるのに「タバコロジー」の「タバコ記者」を忘れてはなるまい。ともかく、たばこ問題を社会的な視点で本格的に扱った記事であった。本にもなった。1977年1月から始まって1987年5月まで68回掲載された。この長期連載は日本の嫌煙・禁煙の動きを促しその市民運動を加速するのに役立った。この企画のきっかけは「嫌煙バッジ」を作っている人がいるというから面白い。すぐにバッジを作る人に会いにゆくという行動力も褒められてよい。

 東日本大震災をみても科学ジャーナリズムの存在価値は大きい。積極的に発言し行動すべきだ。最後に著者は「理想の科学ジャーナリスト像」に触れているが、文系の記者よりも今後は出番が多くなりそうな気がする。取材力を付けたうえで読書を含めて勉強を怠らないことだ。そこから新しい科学記者が生まれてくる。