2014年(平成26年)3月1日号

No.602

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追悼録(518)

わが死よ 汝 われに語れ

 昨今、寝るときに初めに不動の姿勢で休む。両手を体のそばにくっつける。しばしその格好になっていると、棺に納められた遺体の姿だなあ・・・と苦笑する。縁起でもないがそう思う。もちろんそのあとは体をまるめて寝ている。毎日のように夢を見る。ほとんど覚えていない。この間、旅先の宇都宮でお寺の住職と同宿し「無欲になりなさい」と説教され「無欲は大欲に似たり」と口答えする夢を見た。「夢は何らかのメッセージ」というからこの説教をありがたく受け取った。ともかく当分は無欲を旨とする。

 我が家は神道だから戒名は名前の下に「命」(みこと)がつくだけである。父親は89歳で亡くなった。7人兄弟は4つ下の弟が一人健在だけである。会社で同時入社した連中は3年前にすべてあの世に行った。昨年、すでに88歳を過ぎた。

 最近「タゴール詩集」・ギーターンジャリ(訳渡辺照宏・岩波文庫)に目を通した。次の詩が気になった。

 「おお わが この生涯(いのち)の 果の仕上げ
 死よ わが死よ 汝(なれ) われに語れ
 われ生まれしより 汝(なれ)がために
 日日に 目醒めき 
 汝がために 荷ひ歩みき
 苦楽の悩みを
 死よ わが死よ 汝
 われに語れ」

 私の死が何かを語るというのだ。今まで考えたこともなかった。死が命の仕上げか・・・。私は「寿命は神様が決めてくれたものだ」と思っている。聖書にも「生きるにしても死ぬにしても、主に従うのです。いずれにせよ私たちは主のものです」とある。とすれば、これからは哲学者アーノルド・トインビーが言うように「つねにいつ死んでもいいつもりで生きることができねばならない」が理想であろう。死ぬのも覚悟がいるということであろう。

「死よ わが死よ 汝 われに語れ」。この意味は何か・・・。死は私に何を語るのか。生涯ジャーナリストを目指した我が死は残した足跡がすべてを物語るというほかない。今後、心してものを書いてゆかねばならない。老いてよきものを書き残せば朽ちずということか・・・

 

(柳 路夫)