2014年(平成26年)3月1日号

No.602

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安全地帯(422)

信濃 太郎


陸奥宗光の外交と日清戦争


  桜田門外の変(万延元年3月3日・1860年)も2・26事件(昭和11年2月26日・1936年)も春の大雪の日であった。桜田門外の変から8年で明治維新となる。2・26事件から9年で敗戦を迎える。今年2月8日と15日東京は記録的な春の大雪に見舞われる。とすれば8年から10年後にどのような激動的な時代を迎えるのであろうか。春の大雪の翌日の2月9日、東京都知事選挙で舛添要一候補が圧勝した(2112979票)。だが、何らの組織票を持たない自衛隊元航空幕僚長・田母神俊雄候補が61万865票をとったのは意味がある。「日本はよい国だ」といい、現職時代から靖国神社に参拝し、「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いはない」と田母神さんがいうのは正論である。それを支持する者が東京だけでも61万人もいるということだ。今後の動向が楽しみだ。

  春の雪の深さを考えながら明治の陸奥宗光の「他策なかりしを信ぜんと欲す」の言葉を思い出す。陸奥の回想録『蹇蹇録』に出てくる。日清戦争に勝利して講和条約を結んだときにロシア、フランス、ドイツが三国干渉して遼東半島を返還せよといってきたのだ(明治28年4月23日・条約調印後6日目)。当時日本の国力では三国を相手に戦う力はない。応じるほかになかった。外交の背後には「力」がいるという教訓である。これがわかない日本人がいるのは残念である。清国と講和条約を結びつつ三国干渉に対する対応も考えて外交を進めた陸奥外相の感慨が先の言葉である。「我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり」。陸奥の着地点は正しく日本の国益を守ったのである。

 日清戦争の話を続ける。日本と清国海軍が戦った「黄海海戦」の勝敗について戦前、世界の賭けの予想は「清国7、日本3」であった。無理もない。清国は「定遠」「鎮遠」の2大甲鉄艦(排水量7335トン、砲力30センチ4門、速力14・5ノット)を軸とする清国艦隊に対して日本艦隊は旗艦「松島」「厳島」「橋立」(排水量4278トン、砲力32センチ1門、速力16ノット)で、どんな太刀打ちができるかという有様であった。初代の連合艦隊司令長官伊東祐享中将は「雷公司令官」と言われ厳しい訓練を課し、紀律にも厳格であったが人情にも厚く部下から慕われていた。黄海開戦の時、清国艦隊を認めるや伊藤中将はまず昼食をとるように命じたという(明治27年9月16日午前10時ごろ)。正戸為太郎中佐参謀は「敵がそこに出てきたのに、いの一番に食事を令せられるのはどういうことか、ちょっと妙に思った。しかし『腹が減っては戦が出来ない』といった実際問題を長官はちゃんと考えておられたので長官は偉いなと感心した次第である」と回想している(水交会編『回想の海軍』所載)11時ごろには全員が昼食を済ませ戦いに備えた。結果は大勝利であった。先の大戦のレイテ海戦・第2日(昭和19年10月24日)に、敵機の連続空襲の為に昼食の暇なく夕刻前に全員が疲労困憊したという物語と合わせ考えて興味があると伊藤正徳はその著「大海軍に思う」(光人社刊)に記す。

 伊東長官は敗戦の責任を取り自決した丁汝昌提督には、敵側がその棺をジャンクで送るというのを敵の運送船「康済」号を捕獲せず、その船で丁提督の棺を運ばせた。「康済」号が威海衛を離れる日、連合艦隊の将兵は整列して見送り、旗艦「松島」から弔砲が打たれた。世界は伊東中将の処置を「これぞ日本武士道」と称賛した。

 陸奥の話に戻る。陸奥は幕末時に結ばれた諸外国との不平等条約の改正を果たした人として知られる。彼を一流の人物と仕上げたのは35歳から41歳まで西南戦争に関連した国事犯で囚われ、獄中にあって著作、翻訳、勉学に励んだからである。この時に彼の政治思想が固まったといわれる。獄中で「面壁独語」「福堂独語」「資治性理談」などの著作をする。またべンサムの「道徳及び立法の諸原理序説」を翻訳して「利学正宗」を著している。獄中で読んだ本は「泰西史観」、ギゾーの「欧州開化史」、「自由之理」「ミル経済論」「万法精理」「立法論綱」「刑法論綱」「民法論綱」「フランス法律書」「フランス五法」などである(岡崎久彦著「陸奥宗光」上・PHP研究所刊)。昔から人間は入院した時、貧乏なとき、獄中の際、どのように過ごすかで人間が決まるといわれている。

 日清戦争といえば私の耳には「まだ沈まずや定遠は」の「勇敢なる水兵」(作詞佐々木信綱・曲奥好義)が聞こえてくる。傷ついて倒れた水兵は三浦虎次郎3等水兵。当時19歳、鹿児島出身。「心安かれ 定遠は戦い難くなし果てぬ」と答えた副長は向山慎吉少佐(海兵5期)。のち中将まで進み竹敷要港部司令官となる。明治43年12月18日死去、享年55歳。三浦虎次郎の墓は佐世保市日宇の海軍墓地にある。「まだ沈まずや定遠は その言の葉は短きも み国を思う国たみの 胸にぞ永く記されむ」それから120年.これら尽忠の士に見守ながら今日まで来た。それを思う人が少なくないのは嬉しい。