2014年(平成26年)2月1日号

No.599

銀座一丁目新聞

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花ある風景(515)

 

湘南 次郎

 

千住掃部宿のダンナ
 


 「草加、越谷、千住の先よ」とうたわれた荒川に架かる日光街道の千住大橋を渡ると、そこは江戸より第一の宿場、千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)である。松尾芭蕉が「おくのほそ道」で弟子の曽良(そら)を連れて深川から舟でさかのぼり、奥州、北陸へむかっての第一歩を踏んだところ。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだので有名な宿場だ。戦前までその日光街道に沿ってお蔵のある大店(おおだな)の商家が並んでいた。

 町並は現在、初老をむかえたかつてのダンナ衆の末裔の方々が青年時代から努力して歴史の顕彰に励まれたので、千住旧日光街道沿いには各所に旧跡の説明板があり、歴史散策ができるようになっている。全戸焼失の戦災にもめげず立派な復興はダンナ衆の心意気を示しているものだ。年も押し迫った12月、足立区千住に在住のダンナ衆の一人、W氏より「(おお)千住展」(足立区立郷土博物館)のお報せと、立派な写真入りの本「大千住展」が送られてきた。その本は、江戸から明治、大正、昭和、平成の商家の歴史がつづられて、興味津々であった。

 年が明け、妻と「大千住展」を見に行く機会があって、W氏とお会いし、いろいろ商家の良き時代のお話を、歯切れのいい口調で聞くことができた。彼の家は、かつて、家伝の「畳屋薬」という喘息(ぜんそく)などの特効薬を製造販売していた有名な薬種問屋で、16代までは代々「太右衛門」という名跡を襲名した。彼は18代にあたる。戦前は、立派な大理石の看板を掲げた大店で主人が帳場に座り、重厚な黒光りする柱や扉の店構え、客間も「新座敷」と称し、上質な部材、洗練された意匠、床の間には、名だたる絵師によって描かれた掛け軸が季節、行事によってその都度掛け変えられた。収納品の白眉は「掃部宿」の扁額の掲げてある江戸末期制作の大山講に使われた小型のお厨子(ずし)だ。相州大山寺・阿夫利神社への商売繁盛、家内安全、降雨祈願と町内で参詣の同志による講中でご当主が先達となり、鳶の方に担がせて行ったもので、高さ60p程度の大きさだが精巧な彫刻が施されている。だが、鷹揚なものでご当主が最近お蔵で発見したのだそうで、今回が初の展示になるが、博物館に収蔵するようだが、重要な文化財ものだ。

千住大山講の背負い厨子(江戸末期)

 残念ながら戦災でお店のある母屋は焼失したが、建て方が良かったのでお蔵だけは焼け跡に毅然として残った。用意周到、中にはいっぱいに水を張った樽を置いてあって、火災後、数日冷えるのを待って開けさせたので収納物は助かった。そうで、すぐ開けたら内が焼失していたかも知れなかった。収蔵されている代々の収集品は、芸術家、特に絵師たちの面倒を見ていたらしい。その後大成した尾形光琳の流れをくむ琳派の幕末から明治にかけての絵師、村越其栄(きえい)、向栄(こうえい)の絵をはじめ書画骨董、美術工芸品を所蔵され、その一部を以前、博物館展で拝見したことがあるが、今回も出展、大店(だな)のダンナの造詣の深さに驚く。またある代の方は臨終の枕元に歌舞伎役者を呼んでお仕舞をさせたとのこと、お買い物では、三越の外商が訪れ、庭のお稲荷さんには立派なおキツネさんの石像が、奥には、当主以外、入れぬ家伝薬の調合所のほか、作業場、お長屋があったそうだ。面白いのは、有名な議長までなった一匹狼の故K衆議院議員(当家17代目が後援会長)は書生のころ、このお長屋で世話になっていたのだそうだ。最近まで葬儀や慶事には出入りの鳶の方が木遣りをうたった。代々、町の総代、世話人として山車(だし)の出た祭礼には、店の前に四神鉾(玄武・青龍・「剣鉾」・白虎・朱雀)を飾り、左右に「御祭礼」の高張提灯をたてて神酒所を開設した。小生も、成田山新勝寺参詣の時、偶然、常夜灯寄進の千住のダンナ衆の額を絵馬堂で発見したことがあった。また、ダンナ衆主催の千住の「酒合戦」と称する酒の呑み比べは有名で、近郷近在の酒豪が集まって競った番付や、絵巻物も展示されている。おそらく、この街道の大店は大同小異、おおらかで、裕福な生活をされていたのだろう。「大千住展」には他の大店の戦災で残ったお宝、美術工芸品も展示され、千住掃部宿の繁栄した良き時代の一端を知ることができた。私事であるが、W氏は私の義母の里方でかつて薬種問屋、第18代ご当主である。また、戦後偶然聞いたのだが、義母の姉の嫁ぎ先が、私の陸軍士官学校時代の修身の教官(陸軍教授、将官待遇)で、当時お公家さまの橘 某氏であった由、お聞きしてびっくりした。講義に「さようでござりまする」と言うので覚えていた。商家のサッパリした気性のお嬢様が合うわけがなく離婚され、お長屋で上げ膳、据え膳の自適の生活を送られた。また、これも偶然、名古屋の某所で足立区が琺瑯びきの「畳屋薬 わうだん(黄疸)・たんせき・ぜんそ・くのくすり 東京千住町 本舗 若田太右衛門」という看板をごく最近入手した。現在博物館が所蔵していて研究員よりご説明を聞くが昭和初期のものか。どこか地方の薬屋の店頭に貼ってあったのだろう。

 

大正年間の祭礼の店頭に四神鉾を飾る畳屋薬本舗  名古屋入手の琺瑯びきの看板.psd

 千住は、現在、旧日光街道の各所に千住掃部宿の歴史を書いた案内板があり、興味のある方は、江戸時代に帰って散歩されるのも面白いのではないか。(JR、東武北千住駅、京成千住大橋下車。徒歩10分)。ただ、戦災にあったのが悔やまれる。また、少し離れている足立区立郷土博物館 

 (地下鉄千代田線亀有駅下車バス約20分同館前下車)も参考になる。
 (註)「畳屋薬」の由来は、初代太右衛門が畳屋を生業としていたが、道中難儀をしていた僧侶が、一夜の宿を親切にお世話してくれたお礼に薬の製法を残して行ったと伝えられ、代々家伝の薬として製造し全国に販売した。

 「四神鉾」は、収納箱に天保4年(1833)9月とあり、奉納者の氏子世話人に畳屋太右衛門を含め数名列記されている。

(参考資料) 足立区立郷土博物館 「大千住展」
足立区立郷土博物館 「千住の琳派」
W氏、郷土博物館学芸員O氏の展示品、所蔵品についてのご説明有難うございました。