2013年(平成25年)8月1日号

No.581

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茶説

嗚呼 昭和12年という時代

  牧念人 悠々

 宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(7月22日・東宝シネマ府中)は「零戦」の設計者堀越二郎が主人公。物語に作家・堀辰雄の小説「風立ちぬ」が彩を添えている。堀越が名機・艦上戦闘機「零戦」の開発に取り組み始めたのが昭和12年、堀が小説『風立ちぬ』を書き上げたのが同じく昭和12年である。宮崎は言う。「零戦」のテスト飛行を見つめて一言「美しい」と漏らす。これが堀越しの本音であった。彼が作りたかったのは戦闘機ではなくて美しい飛行機であったと宮崎は解釈する。海軍の制式機として採用されたのが昭和15年7月。中国大陸、続いて大東亜戦争で縦横無尽に活躍し、敵を畏怖せしめたが最後は250キロを抱き特攻機となり多くの若者たちが国に殉じた。総生産数1万430機を数える。その生涯は華麗にして悲壮であった。小説『風立ちぬ』は堀辰雄の代表作。堀は昭和8年、軽井沢で矢野綾子(映画では菜穂子)と知り合う。翌年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、昭和9年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。綾子はその冬に死去する。この体験が小説『風立ちぬ』の題材となった。堀と一高からの親友であった神西清は「詩を散文に書ける人は日本に何人もいない。その中でも一番優秀なのが堀辰雄だ」と言う。神西清は「文学は詩である」とみる。散文を詩にするのは素晴らしい感性の持ち主だ。

 昭和12年とはどのような年か主に事件と文化からみてみる。2月、第1回文化勲章が制定された。受賞者は長岡半太郎(物理学)、 本多光太郎(金属物理学)、 木村栄(地球物理学)、 佐佐木信綱(和歌・和歌史・歌学史)、 幸田露伴(文学)、 岡田三郎助(洋画)、 藤島武二(洋画)、 竹内栖鳳(日本画)、 横山大観(日本画)の9人。4月、永井荷風『墨東奇談』朝日新聞で連載始まる。ひとのみち教団不敬罪で検挙される。6月、NHK加入者300万人突破記念祝賀会開かれる。5月、双葉山は1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し、横綱に推挙。7月、近衛文麿内閣を組織する。盧溝橋事件起きる(中共軍の謀略で日中戦争の泥沼に入る)。9月、国民精神総動員実施要項発表される。陸軍士官学校市ヶ谷から神奈川県座間に移る。11月、関東・東北地方初の防空演習実施。信濃毎日新聞で桐生悠々が「関東防空演習を嗤う」を書いたのは4年前の昭和8年8月11日である。12月、東大教授矢内原忠雄、反戦的筆禍事件で辞表提出・4日後辞任。人民戦線第1次検挙(山川均ら400人検挙)。南京占領(戦後、虚構にしても南京虐殺事件のきっかけを作る)。この年ヤクザ小唄が急に活況を呈し流行歌の中心を占める。上原敏の歌う「妻恋道中」がヒットする。「愛国行進曲」(内閣情報部募集・当選者は23歳の作詞森川幸雄・作曲瀬戸口藤吉・海軍軍楽隊長)も良く歌われる。応募は5万7578編もあった。戦後、独立を果たしたパラオでは現地語で「愛国行進曲」が歌われている。廣澤寅造の「バカは死ななきゃ治らない」も流行語となる。庶民の心の中にどうにもならない世の中の動き―拡大の一途をたどる戦争に引っ張られていく運命への諦めがあったと「世相史」は伝える。このように見てくると、昭和12年は昭和64年の歴史の中で特筆すべき年であったことが分かる。とりわけ盧溝橋事変は大東亜戦争を招き日本を敗戦のどん底に陥れた。

 昭和12年といえば筆者はハルピン花園小学校の6年生であった.前年の2・26事件とともに盧溝橋事変はよく記憶に残っている。2年後「妻恋道中」の作詞家・藤田まさとも寄宿、学校に通った「大連振東学舎」に入り大連2中に通学した。

 時代は世相を反映する。人間の精神が形になる。堀越二郎の技術の心は「零戦」を生み、堀辰雄の矢野綾子への思慕が名作「風立ちぬ」を作り出す。昨今ヘーゲルの「精神現象学」がもてはやされるのは理由のない事ではない。