2013年(平成25年)5月10日号

No.573

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追悼録(489)

小日向白朗さんを偲ぶ

 

 毎日新聞の「経済観測」(5月3日)に元中国大使宮本雄二さんが馬賊王・小日向白朗さんのことに触れていた。小日向さんとは生前付き合いがあり暇を見つけてはよく銀座で食事をともにし昔話を聞いた思い出がある。

 小日向さんは、単身で中国大陸に渡り、捕虜から馬賊の総頭目にまでになった人である。中国名は尚旭東。民衆からは小白竜とも呼ばれた。私が中学時代寄宿した「大連振東学舎」を創設した漢学者金子雪斎翁とも親交があった。朽木寒三著「馬賊戦記」(番町書房)によれば大正11年春、「大連では金子雪斎先生の門をたたき、一泊した。金子先生は満鉄調査部の出身で、このころは大連に居を構え,塾生を常に20人,30人おいて、訪ねてくる青年があると必ず泊めてくれた。金子先生はいわば岡倉天心と並び大陸浪人の思想的背骨ともいうべき人であった」とある。昭和10年代には大連の中学校で学ぶ子弟の寄宿舎となっていた。また、この本には東京日日新聞の特派員に蒋介石軍に敗れた張作霖が北京から逃げ出し列車で山海関を通って奉天へ戻る。奉天到着時刻は早朝5時半ごろと時間まで小日向さんが知らせた事実を明らかにしている。張作霖は奉天郊外で爆死する。昭和3年6月4日の事である。

 宮本元中国大使が紹介したのは、捕虜の小日向さんを即座に仲間に受け入れた中国人のおおらかさである。「日本生まれだが父が中国人で母が日本人、父親を探している」という小日向さんの言葉を馬賊の頭目はうのみにした。言い換えればいい加減なのだがそうしないと多様な民族、多様な風俗習慣、多様な気候風土を持つ広大な中国をまとめることはできないという。中国にもそういう一面があるのだ。面白い視点である。

 若くして馬賊の頭目となり中国大陸を舞台に活躍した小日向白朗さんは昭和57年1月81歳でこの世を去った。それから31年後また彼のことが話題にのぼるのは私にとってうれしい限りである。

 


(柳 路夫)