1998年(平成10年)12月20日(旬刊)

No.61

銀座一丁目新聞

 

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“針の穴から世界をのぞく(7)”

 ユージン・リッジウッド

“コソボの戦い”無残

 [ニューヨーク発]やむなき避難生活から久しぶりに我が家に帰った一家が井戸水の悪臭を不審に思って井戸の中をのぞいてみると、何と牛の屍骸が井戸の中に浮いていた。これは巨大な台風ミッチにいためつけられた中米のニカラグアやホンジュラスの話しではない。ヨーロッパ・バルカン半島の一角ユーゴスラビアのコソボ自治州で今毎日のように騒ぎになっている話しである。

 住民の90パーセント以上がアルバニア系というコソボ自治州では、今年初めユーゴスラビアからの分離独立を目指すコソボ解放戦線の活動が活発化したことで大量のユーゴスラビア警察軍が投入され、解放戦線が拠点としていた町や村の一般住民に対しても厳しい弾圧が加えられた。武器を持たない幼子を含む一家惨殺現場を始め、警察軍の無差別攻撃に怒った国際世論を受けてアメリカ政府とNATO軍が圧力をかけた結果、ついにミロシェビッチ大統領が警察軍の撤収を決定した。10月のことだった。それを受けて隣国アルバニアなどへ避難していたコソボ住民は10月末から村へ帰り始めたが、そこで発見したのが家という家、村という村で牛や馬、犬や鶏の屍骸が投げ込まれたり、ペンキや灯油、小麦粉などで汚染された井戸だった。

 ワシントンポスト紙が井戸の汚染が激しいオブカレボという小さな村から伝えたところによると、警察軍に破壊された村に帰った住民たちを待ち受けていたのは、屋根や壁が砲撃で吹き飛ばされた我が家の建物ばかりでなく、井戸の中に浮かぶ腐った牛や馬の屍骸、あるいはふたを開けたまま投げ込まれたペンキ缶などだった。ペンキ類などの化学物質は子供には特に有害なことで知られている。腐臭を発する水をすべて汲み出して井戸を洗うにも、水を汲み出すポンプがすっかり持ち去られて手のつけようがない。馬や牛といった大きな屍骸を井戸から運び出すにもクレーンがない。さりとて水無しの生活では厳しい冬を目前にして家の修復や村の再建もおぼつかない。そこで村のリーダーたちが自らモルモット役を買って出て、汚染された水を一週間飲んで安全を確認することになった。この人たちに何もなければその井戸はひとまず安全とみられるからである。オブカレボでは言い出しっぺのリーダーに特に異常は現われなかったものの、他の被験者は嘔吐したり、下痢をしたりの厳しい症状が現われた。

 コソボ各地からの汚染の訴えを受けて、赤十字国際委員会やイギリスのNGOが井戸水検査と洗浄の協力に乗り出したが、一組が処理できる井戸はせいぜい1日に2個どまり。汚染はコソボ全域の村から報告されているが、特にひどい仕打ちを受けているのがコソボ解放戦線を支援していたと見られていた村やユーゴ警察軍が基地にしていた村だった。警察軍はアメリカやNATOの力の前に撤退を余儀なくさせられた腹いせと、帰還した村人たちを伝染病発生などで苦しませるいやがらせの二つの理由でこの理不尽な井戸水破壊を企んだものと推測されている。もしそうだとしたらこれは明らかに戦争状態における非人道的行為を禁止したジュネーブ協定違反となる。

 コソボ自治州はアルバニア系住民が9割以上を閉める。しかしセルビア人にとっては、1389年オットーマントルコによってセルビアの一角がモスレム化された“コソボの戦い”の地で、セルビアの屈辱の歴史を象徴するものだ。このため大セルビアの復活を掲げたミロシェビッチ大統領はコソボの戦い六百周年の1989年、国際世論を無視してコソボでのアルバニア系住民の弾圧に乗り出し、それまで認められていた自治を剥奪した。以来自治州とは名ばかりのコソボでは絶対多数のアルバニア系住民による独立国家建設の動きがくすぶっていた。

 それにしても撤退を余儀なくされた軍隊が醜く無残な破壊を置き土産にする行為は後を断たない。近年だけの事例を見ても、ゴラン高原を撤退するイスラエルは歴史的な町ミトラを廃虚と化したが、戦争中は別としても停戦が決まってからの破壊の無意味さに愕然とさせられた。クウートから撤退するイラク軍は石油掘削用の井戸という井戸すべてに放火して砂漠を火の海にして引き上げていったのは記憶に新しい。そしてボスニア戦争ではデイトン協定の後モスレム地域から撤退するセルビア系ボスニア軍がサラエボ冬季五輪のスキーシャンツなどの施設をまったく意味なく破壊したのだった。去る軍隊は立つ鳥の真似すらできないのが常とは言え、ボスニアで残虐の限りを働いたセルビア人は今コソボでも民族の汚名を子孫と歴史に残そうというのだろうか。

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